宿毛市史【近世編-土予国境論争-篠山国境争い】

鰐ロの事件

明暦3年8月30日の朝、明け6つに、予州の者300人ばかりが篠山の観世音寺を取り巻き、寺へ乱入、観音堂の鰐口を下して、住持にその銘を写せと言った。住持が写すことを拒否すると伊予の岩淵庄屋万二郎が写し、権現堂へ坊主を連れて行き、権現堂の鰐口の銘を写せといった。これも坊主が書かないので、万二郎が書き、今度は、2通の銘の写しに奥書をせよとせまった。坊主が書かないので、仕方なく万二郎が奥書をし、その下に坊主に判を押せといった。坊主がそれを拒むと、筆の柄の切口に墨をつけて坊主の手に持たせ、坊主の名「深覚」と書いた名の下に判をつかせた。
又、還住藪まき入市右衛門、吉奈村九郎兵衛の2人の名も書き、きんちゃくを探して判を出し、2人の名の下に判をつき、正木村太右衛門、槇川村伝三郎が連判して、1枚を寺に置き、鰐口1つを持って下山した。
この鰐口には、次のような銘があったのである。
  観音堂鰐口与州御庄篠山観世音寺鰐口宗しん置之 寛正7年丙戌2月18日
  権現堂鰐口与州御庄之篠山大権現宝前 寛正7年丙成2月18日 宗祐置之
こうして、鰐口の銘は写され、その上、1つの鰐口は取られたのであるが、それは、正木の庄屋助之丞達が、この鰐口を、篠山が伊予領の証拠品として江戸へ持って行きたかったためである。
翌9月1日には人数7人で、助之丞たちが江戸へ行ったとの風聞が早くも土佐側に伝わっているが、実際に助之水たちが出立したのは2日のことであった。
300人余が篠寺に乱人して、鰐口を取られたこの事件で、土佐側は又も大立腹である。この知らせをうけた野中兼山は直ちに自身が宿毛に来て、篠山の実地検分を行なっている。『淡論記5』によって兼山の動きを見ると次のとおりである。
  (明暦3年)
 9月13日 淡輪四郎兵衛、宿毛東福寺にて野中兼山と逢う
 同日 兼山、篠山ふもとへ行く
 9月15日 兼山、四郎兵衛と沖の島へ行く
10月22日 兼山篠山へ行く、四郎兵衛を宿毛へ呼ぶ
10月23日 兼山は吉奈泊り、四郎兵衛は雨のため宿毛泊り
10月24日 吉奈で四郎兵衛兼山と逢う、吉奈泊り
10月25日 兼山、四郎兵衛楠山へ行く
10月26日 雨のため登山出来ず
10月27日 同右
10月28日 篠山見分
10月29日 大雨登山出来ず
11月1日 大雨見分出来ず
11月2日 貝の森より篠下り、おつむきが尾下る。窪川を見分楠山に帰る

こうして兼山は、寺の破られた様子、境の様子を見分し、山の絵図の作製を命じて帰ったのである。

篠山観音堂の鰐ロ 篠山観音堂の鰐ロ銘写 兼山と四郎兵衛宿毛東福寺にてあう
篠山観音堂の鰐ロ 篠山観音堂の鰐ロ銘写 兼山と四郎兵衛
宿毛東福寺にてあう