宿毛市史【近世編-土予国境論争-篠山国境争い】

梨の木峠の事件

明暦3年(1657)12月5日に、また1つの事件が起った。土佐の役人達、片岡武右衛門、西山七郎右衛門、手島喜六、安積次郎作、衣斐金左衛門その他10人が、沖の島見分の帰途、篠山境目見分のため、篠山へ登山した。
その時、おつむきが尾の上の、梨の木峠で宇和島衆が登山の邪魔をし、こちらの侍の槍を奪い取った。お供をしていた楠山の仁兵衛が杖で戦い、取られた槍は取り返したが、仁兵衛は杖を取られてしまった。その時宇和島衆が石を投げつけたので、西山七郎右衛門が刀を抜くと、宇和島衆は逃げ散った。
この事を抗議すると、字和島側は、侍衆が登山の時、おつつみの尾を200人余で通った。大勢で通ることはいかない。と断ったが、無理に通ったので、これを防いだのである。その時かえって刀で追い散らされたのである、といってきた。
この件でも双方の人数に大きな違いがある。土佐側では10数人といい、伊予側は200人とあまりにもその数が違い過ぎて、どちらが正しいか、はっきりしない。
この事件をさかいとして、藤田彦六が出てくる。『淡輸記』によれば、彦六は、中村弥五右衛門という兼山の家臣であるが、これを藤田彦六と変名させ、下山郷の庄屋として、篠山国境争いの責任者としたのである。
中村弥五右衛門は、沖の島の山形を作った時の役人27人の中の1人で、宇和島藩の者に顔を知られているので、いまさら下山の庄屋といっても、にせ物と言われる、といって断ったが、聞き入れてくれなかった。下山郷の庄屋といっても、下山郷大庄屋新丞はそのままで、篠山問題を扱う下山郷楠山の庄屋としたのである。
兼山は、沖の島国境争いでも弘瀬の庄屋源五郎に代って、家臣の市右衛門を使って効果を上げているが、又もや同じ方法で、新丞に代わって藤田彦六を使用したのである。
楠山村藤田彦六の名が、はじめて文書に出るのは、明暦3年12月6日の手紙である。12月5日の梨の木峠事件で槍を取られようとしたことを、翌6日に、楠山村仁兵衛、同市右衛門、出井村伝三郎が、藤田彦六にあてて報告している。
この梨の木峠事件で、土佐側の者が、伊予の者の古あわせと、まさかりを取り上げている。この事について伊予領長月の庄屋伝之丞、城辺の庄屋加左衛門より、土佐の下山郷庄屋新丞あてに抗議が来たのである。これが彦六の方にまわり、彦六は直ちに野中兼山と相談して、楠山仁兵衛に次のような指示を与えている。
長月庄屋伝之丞、城辺庄屋加左衛門の書状によると、古いあわせを置いていたのを、土佐の者がひろい取ったというが、取らないものに返事の必要はない。古いあわせは、其の方が山の谷あいで、人に知られないように焼き、楠山の土地の者にも、この事を知らせないようにせよ。まさかりも、この方へは取らないように返事をしたので、下々の者にまでよく伝えておくこと、まさかりも深くかくしておくようにせよ。古いあわせ、まさかりともに、この方に取らないと言っているので、その事を心得るように。右のことは、伯耆様(兼山)のお考えであるから、そのつもりでおられたい。
又彦六は、下山庄屋新丞は、下山分の仕事が多いので、楠山辺の事は拙者に申し付けられたので、今後は拙者に状を下さるように、という手紙を12日に長月伝之丞、城辺加左衛門にあてて出している。

藤田彦六書状 彦六を中村弥五右衛門といわれた場合の対策協議
藤田彦六書状 彦六を中村弥五右衛門と
いわれた場合の対策協議