宿毛市史【近世編-土予国境論争-篠山国境争い】

忠義のいかり

土佐藩2代藩主土左守忠義は、明暦2年(1656)に隠居し、当時は3代対馬守忠豊の時代になったばかりの時であった。その時にこのように度々国境争いがおこり、高知城下近くまで宇和島藩の侍がおし寄せて来たり、寺が破られたりしたのでは、もうがまんできなかった。
命のあるうちに国境問題を片付けねば、忠豊にも申しわけないと考えたのである。
ついに忠義は、明暦3年(1657)12月15日、老中に見せてほしいと、出雲守や神尾備前に訴状を提出したのである。
一、上様御幼君の時、2度まで公事を行うことは年寄りがいもない事と思うけれど、無理非道な狼藷を数度も仕掛けられては、堪忍も成らず、仕方なく申し上げます。
一、篠山の境は、矢筈の谷であり、東の森は土佐領で、権現堂、観世音寺共に土佐領にあります。
一、先年絵図を作った時、両国で話し合い、境目の石に印をつけています。其の時には何も言わず今になって境の事を言っているのは、合点がいきません。
一、私、近年病気のため、篠山の堂寺を建立したいと思っていたところ、宇和島側より止められました。
一、去年の6月、正木村の庄屋助之丞が、坊主を宇和島につれて行き、篠矢筈を、池矢筈と言わせようとしました。
一、土佐領おつむきが尾で、大松を宇和領の者が焼き折り、あかり松を奪い取り、松の角材を夜中に盗み取り、番小屋を焼き、重ねて小屋を崩しました。
一、おつむきが尾で、仕成していた松板を、宇和領の者が、伐り折って置いていたので、その板を取ろうとした所、石を打かけ、鉄砲でおどされました。
一、争いのあった所を、相談で解決しようとしたけれど。土佐領だけを入相にというので解決出来ませんでした。
一、宇和領の者が5月21日に寺へ乱入し、仏像2本を盗み取り、さらに5月の末6、70人で城元の朝倉まで押かけて来ました。
一、7月13日に、大勢で篠寺へ乱入し、建物を破損し、道具をこわし、盗み取りました。
一、8月晦日、篠寺へ乱入し、鰐口の銘を写し、坊主に奥書をさせようとし、無理やり筆の柄を持たせて判をおさせました。
一、沖の島へ行っていた侍5人が、篠山の境を見分していた所、乱ぽうされ、槍を取られようとしました。
私は隠居の身、このような争いを申し上げる事は似合わない事と各々も思われるであろうが、家督を対馬守に渡したすぐ後で物言いがついたのは、まことに迷惑に思います。生きているうちに、国境をはっきりしておかねばと思い遠慮なく申し上げます。私は隠居を仰せ付けられ、又気分もくたびれ、今日明日もわからない身体ですが、是非とも江戸へ下り、沖の島、篠山のことを申し上げる覚悟です。この書付の趣を御老中へ御目にかけ下さるよう御願いします。(『淡輪記』6)
翌年の明暦4年(1658)3月2日には、出雲守や備前守より、大名の直公事(大名が直接訴訟を行うこと)は御法度であるから、取り下げるように、との注意があった。しかし、忠義は承知せず、3月20日には松山藩主の隠州様へ、この公事は一代の大事である。老後の面目を失わないよう御願いする、との手紙を送っている。(『淡輪記』7)
3月27日には松平伊豆守よりも、直公事は法度であるから、百姓公事(百姓が訴訟を起す)にしては、との注意があったが、それでも忠義は直公事にしてくれとの手紙を4月15日に出している。
一代の大事とか、老後の面目を失わないようにとか、法度の直公事を願うとか、篠山の事件に、いかに忠義が強いいきどおりを持っていたかがよくわかる。
直公事が法度であるため、仕方なく百姓公事とすることとなり、事件の関係者を、江戸に呼び集めることとした。

忠義の訴状
忠義の訴状