宿毛市史【近世編-土予国境論争-篠山国境争い】

百姓公事の準備

明暦4年(1658)5月11日、野中兼山は江戸へ着いた。いよいよ舞台は江戸へ移り、江戸での兼山の活躍が始ったのである。
5月18日には、藤田彦六、楠山市右衛門、同文太夫、九郎兵衛、石見寺、観世音寺の住持などが江戸へ向って出発し、6月2日に江戸に到着した。(『淡輪記』8)7月23日万治と改元、その直後の7月25日には出井村庄屋小左衛門、窪川の孫助、源丞、京法の次右衛門も江戸に着いた。(「淡輪記』8)宿毛の大庄屋少兵衛も一行の1人として江戸に来たのであるが、どの組と一緒であったかはわからない。
こうして関係者一同が揃ったので、目安(訴状)を作りはじめた。9月14日には、目安の下書を書き直す所まで進んだ。(『淡輪記』8)
一方兼山は、関係者に指示して、篠山せんぎをはじめた。篠山公事の稽古である。毎日毎日稽古が繰り返され、あらゆる対策が立てられた。この間の稽古の日程を、『淡輪記』8で見てみよう。
一、9月18日伯耆殿上屋鋪へ御座成され、ささ山内詮儀を御敷台にて成され候也。四郎兵衛、少兵衛、坊主、百姓など出候也
とあり、以下19日、20日、21、23、24、26、27日と兼山とともに稽古を行なっている。27日に兼山は芝へ帰ったが、他の者は引き続き稽古をし、28日、29日、30日、10月1日、2日、4日、5日、14、17、18、19、22日とほとんど連日稽古を、行なっている。
中でも10月22日のせんぎでは、彦六を中村弥五右衛門であると言ったらどうするか、とその対策まで協議している。
9月29日、兼山は、淡輪四郎兵衛に、「公事毎日けいこ候や、よみおぼえ候にては100日にてもならざるもの。」といい、十分に稽古するように命令を下している。兼山の意欲が、この一文によっても十分伺われるのである。

篠山公事の稽古
篠山公事の稽古