一、 | 伊予宇和郡御庄の内、正木村という所に、篠山という高山があります。この地に権現堂並に観世音寺という寺があります。彼の山の腰をひきまわした道より上を蓮花座といいます、蓮花座の頂上に矢筈の池という池があります。それより峰続きで、麓は槇の尾という所を下り、正木川で別けて、伊予、土佐の境と申し伝えています。堂寺は字和領にありますが、蓮花座が土佐領へもかかっていますので、両国の権現と申し来っています。 |
一、 | 別当正善は、年をとり、高山の上下が不自由ですので、深覚という弟子に堂寺を預け、師匠は麓の正木村に居り、時々登山して指図をし、寺社の仕事の助けをしておりましたが、去々年9月上旬より土佐領下山村庄屋新之丞という者が、深覚を引き入れ、右の篠山堂寺とも土佐領であるといい、番人を置き、字和領より参詣にくる人を妨げ、社法等を押掠め、狼籍があったので、御公儀へ訴えたいと、宇和島奉行へ申し出ましたところ、予州御庄篠山とある証拠もあり、その上両国の権現というのであるから紛らしさは何もないのに、新之丞や深覚のしかたは心得がたい、と奉行達は言われました。私共は、土州高知へ行って、この事を言うと、奉行に言ったところ、宇和島の家老達が、お前達だけでは心配だということで、篠山を支配している郡奉行2人と私達とで、高知へ行くことになりました。高知より1里ほど手前で、所の者に留め置かれ、私共の言うことを、高知へ知らせてもらいましたけれど、取り合ってくれなかったので、仕方なく帰って参りました。 |
万治元年10月15日 | 助之丞、字兵衛、正善が目安書を松平出雲守方へ持参したところ、阿波守が当番だから、そちらに指出すようにとの事。 |
10月16日 | 阿波守へ目安書を指上げ、鐘銘、鰐口、仏の台座の書付、上生院の状をお目にかけると18日に持参せよとの事。 |
10月18日 | 阿波守方へ参り、河内守も同席で篠山の事をあらまし説明する。 |
10月27日 | 阿波守方へ参上、河内守、出雲守が来られていた。 |
11月 9日 | 阿波守様へ召出される。河内守様、出雲守様も来られていた。 |
11月25日 | 河内守様へ行く。様子は聞いたが絵図面を持参したかと聞かれたので、絵図面を見せ、境の様子、事件のあらまし、証拠の模様等を詳細に説明する。 |
12月 8日 | 河内守様へ行く。明日寄合があるので出雲守方面へ行け。指図があるはずだと言われた。 |
12月 9日 | 出雲守様方へ行く。今日は先ず帰れといわれて帰る。 |
12月11日 | 河内守様方へ行く。留守であったので帰る。 |
12月12日 | 阿波守様方へ行く。永々相詰めて、さぞ迷惑であろうといわれた。 |
同日 | 阿波守様方へ行く。今日は一先ず帰れといわれて帰る。 |
12月15日 | 河内守方へ行く。帳面につけて帰れといわれたので帰る。 |
同日 | 出雲守様へ行く。訴訟の事合点だといわれた。 |
12月16日 | 阿波守様へ行く。少し事情もあって裏判をしていないが、忘れてはいないので、一先ず帰れといわれて帰る。 |
12月18日 | 出雲守様へ行く。3人様(出雲、阿波、河内)が寄り合になっていた。一先ず帰れといわれた。御慈悲と思い聞いて下さい、といったが、聞いてくれなかった。 |
12月27日 | 出雲守様へ参上。3人様寄り合になっており、河内守様より、事情があってまだ裏判ができないとの事であった。 |
閏12月28日 | 阿波守様へ行く。3人様寄り合になっており、年が明けてから相談するから本日は帰れといわれた。助之丞は木形も持参しているので聞いて下さい、と頼んだが、聞いてくれなかった。 |
万治2年2月18日 | 出雲守様へ行く。3人様が寄り合になっていた。助之丞が、長い間詰めて迷惑をしています。その上別当正善が年寄ですので、早く裏判を下さい、と頼んだが、河内守様は、近日中に相談するから、といわれた。 |
2月30日 | 河内守様へ行く。別当は病気ですので、早くして下さい、と頼めば、来る9日の寄り合に阿波守様へ来い。山形も持参せよ。指図をするから、といわれた。 |
同日 | 出雲守様へ行く。取次の者に頼んで帰る。 |
3月 2日 | 阿波守様へ行く。少しわけがあって延引しているが、9日に来るように、といわれた。 |
3月 9日 | 阿波守様へ行く。御3人様寄り合、山形を見せ、その他堂寺の事、境の事など証拠の品々を見せ、裏判をいただく。 裏判というのは、目安の裏に書かれるもので、その全文は次の通りである。 如此目安指上候、致返答書、早々江戸江参府仕、可遂対決者也 阿波 印半 出雲 印半 河内 印半 土州下山村 新丞 深覚 新丞、深覚あてに、返答書(受目安)を作り早々に江戸へ来て対決せよ、というのである。 |
同日(3月9日) | 裏判を押していただいた目安書を、土佐藩主松平対馬守屋敷へ持参した。新丞と深覚に対面したい旨申し上げると、宿毛庄屋少兵衛と彦六が出て来て、新丞は国元に居る。私(彦六)は楠山の庄屋であるので私でよいではないか。といったがどこまでも新丞と深覚が相手であるのでと言って目安を少兵衛や彦六には渡さず深覚に渡した。 |
同日 | 阿波守様へ参り、彦六は私共(助之丞たち)の相手ではない。彦六は高知城下近辺のかがみ野という所の扶持人である、と申し上げた。 |
6月27日 | 河内守様へ行く。阿波守様も来ておられ、新丞を待ってもおそくなるばかりだから、土佐方の望の者と対決する方がよくはないか、といわれ、これを了承した。 |
7月 5日 | 河内守様へ行く。深覚並に土佐方の望の者に返答書を出すように仰せつけましたか、とうかがえば、今日にも仰せつけるから、との事であった。 |
同日 | 阿奪様へ行く。近いうちに返答書を出させるようにするから、との事であった。 |
7月 9日 | 阿波守様へ行く。河内守様も来ており、河内守様が言われるには、対馬守方へ返答書の事をたずねたが、昨日こちらへの返事に、新丞が来るのを待っていたため、返答書がおくれたが、やがて返答書を差上げるから、ということであった。といわれた。なるべく早く返答書くれるようにしてほしい、と願って帰った。 |
7月23日 | 河内守様へ行く。来る27日には返答書が来るだろう、といわれた。助之丞達は、土佐方は返答書を延ばして、その間に手くろうをしていると思われるので早く出させてほしいと頼んだ。 |
7月24日 | 河内守様へ行く。助之丞達は、新丞は病気で来ないというが、これを待っていては、いつになるかわかからずかえって迷惑であるので土佐方の望の者と対決したいので、早く返答書をくれるよう手配してほしい、とお願いした。 |
7月28日 | 河内守様へ行く。河内守が、対島守様御一門よりの連絡によれば、沖の島の出入りで御老中様まで苦労をかけているので、篠山の事は内証ですませたいとの理由で、返答書がおそくなったということである、といわれた。正善は、土佐側の狼藉の数々、証拠等を話し、境の証拠をお目にかけたい、というと、30日に持参せよとの事であった。 |
7月29日 | 阿波守様へ行く。争いの子細をくわしく話したい、というと、その必要はない、といわれた。証拠の品々を見せたいというと、その必要はない近日中に大膳様へ連絡をするから、といわれた。 |
7月30日 | 河内守様へ参り、篠山証拠の品々を御目にかけ、様子を申し上げた。 |
8月 7日 | 河内守様へ参り様子をうかがったが、まだ返答書は来ていないとの事であった。 |
同日 | 阿波守様へ参上。用事があるので2、3日は来ないように、といわれた。 |
8月17日 | 河内守様へ行く。松平出羽守様が御取持ちなされるはずになったとの事であった。 |
8月19日 | 河内守様へ行き、早くらちを明けてくれるように頼んだ。 |
9月10日 | 河内守様へ行く。様子をうかがったところ、中根大隅様、松平出雲守様が御取持ちで、松平出羽守様がうけられるはずだ、との事であったので、早くらちを明けてくれるように、と頼むと、出雲守様御内儀が死去したので今少し延引となるだろうとの事であった。 |
9月18日 | 河内守様へ行く。様子を聞いたところ、今少し待て、との事であった。 |
同日 | 阿波守様へ参上。今少し待て、との事であった。 |
9月30日 | 松平出羽守様扱いになる。 |
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伊予側の目安 | 助之丞たちの報告書 | 篠山の木形 (宇和島市蔵) |