宿毛市史【近世編-土予国境論争-篠山国境争い】

土佐側の動き

万治2年3月9日 裏判のある目安が、土佐側に手渡された。その当時、土佐藩では全力を沖の島公事に注いでいた最中であった。その後の沖の島公事の進行は次のようになっている。
   4月 6日  評定所で沖の島公事開かる。
   5月11日  沖の島公事。
   6月 4日  沖の島公事済む。
このように沖の島公事の最後のつめともいう時期に篠山公事の返答書を命令されたのである。
沖の島公事の最中に、別の篠山公事を争って、果して有利かどうかの判断が行なわれた。その結果、まず沖の島公事を有利に済ませた後で、篠山公事を行うのが得策だと考え、沖の島公事に全力を注入し、篠山公事は極力引き延ばすようにした。その為に返答書の提出をおくらす作戦をとって、なかなか提出しなかった。
土佐側の延引策を見ぬいた宇和島側は、土佐よりの返答書を早く出させ、早くらちを明け、事件を終らせたいと、井上河内守、北条阿波守へ日参して働きかけを行なったのであった。
しかし、沖の島公事がほとんど土佐側の勝利で落着すると、もうこれ以上延ばす必要もなくなったが、返答書の準備はできていないので、すぐに出すことはできなかった。
井上河内守より返答書を7月18日までに提出するように、といわれたが、その期限の前々日、すなわち7月16日には、彦六、少兵衛の2人が河内守の屋敷へ参上し、返答書は18日にはできないので、しばらく期限を延ばしてほしいと訴えている。
8月2日の野中伯耆より前野七右衛門あての手紙でも、篠山公事の返答書をおくらすつもりであるが、河内殿がせかすので、おくらす事はできそうにもない。返答書を彦六、少兵衛、観世音寺にさせ、9日に持参するようにというが、9日にはできない。といっている。
このように延ばしに延ばした返答書の内容は宇和島側の主弧を一々反ぱくしたもので次のようなものである。