宿毛市史【近世編-土予国境論争-篠山国境争い】

返答書

一、宇和領正木村庄屋介丞が、近年篠山で理不尽なことをするので、堪忍できなくなり、御公儀へ訴えたいと思い、土左守の家老共まで申し上げたのであるが、家老共が申すには、篠山のでき事は、宇和島の奉行人が申し付けて土左守に狼籍をしかけたのである。そのわけは、土左守が病気であるのでその願望のため、全国の寺社を建立することになり、篠山堂寺も4ヶ年以前に建立を申し渡したのであるが、介丞は謀略を以て隠居の坊主を引き入れ、宇和島へ断りなしには建立はならない、といい、寺内を打破り、寺物を盗み取り、土州の山中に入って百姓の山仕事を妨げている。このような狼籍は、百姓の考えではない。すぐに堂寺の建立もしたいと思うが、沖の島の争いがまだ落着せぬ内に、又物言いをはじめては、公儀に対してはばかり多いと思い、建立も当分の間思い止まり、土左守の願望さへ成就しない上は、この争いを今申し上げるつもりはなく、如何様の理不尽を仕懸られても堪忍し、沖の島の公事がすんでから御訴えをするようにと、堅く申し付けられましたので、仕方なく返答がおくれ、ただいま返答になりました。
一、介丞の目安に、篠山の内に権現山、蓮花座、矢筈の池などと、偽りの名をつけ、堂寺も予州領であると新境を立てて、偽りを申しています。介丞のいう境には証拠はないはずです。権現山、蓮花座という名は、今まで聞いたこともありません。矢筈の池と今度始めて申し出たのは、篠山の境の「篠矢筈」というその名をかり、土佐領東の森にある二間四方ばかりの水たまりに、矢筈の池と名を付け、境目をまぎらかしたのです。篠山は、森が2つならび、両国へ1つづつわけ、その間の低い所を篠矢筈境と昔から申しています。すべてこの山に限らず、同様の所を矢筈山と申している例は、国内に多くあります。
一、こちらでいう先規よりの境は、矢筈より西の森は予州、東の森は土州、貝の森、石の休場、梨木の峠、尾つむきが尾より板の川下り、正木川分けです。此証拠は、元親検地帳に書いてあります。申し伝えている古歌にもあります。堂寺共に土佐領の地にありますので、検地帳に寺床6代と書き付け、土佐国の地高の中に入れています。元親代には、社領をつけ、国中の社寺並の軍役も申し付けています。その社領の坪付は、八ヶ村の帳の中に薄付けています。其以後対馬守が土佐国を拝領した時も、先例で麓の窪川村で社領をつけ、その折紙を篠山の別当が代々持っています。寺の被官も先代より土佐の内に男女17人居ます。また観世音寺は中村石見寺の門徒です。土左守に目見の時も、石見寺が連れて出、寺役も石見寺の下知によって勤めています。その他土佐の内の月崎と篠山は両所□□□堂と申し辺路が月崎を打てば(順拝すれば)篠山を打たず、篠山を打てぱ月崎を打たずと申しています。このように、昔から土佐領に間違いない証拠が数々ありますので、今までおこたりなく支配して来ました。宇和領ということは今までありません。
一、介丞は、篠山は両国支配だと、わけもない偽りを言っています。土佐国は元親が検地をされた時、国境70余里の間、自国他国を改め、自国分は検地帳に載せました。どこの境にも両国支配などと、片付けない国境は1つもありません。
一、正保2年に、国の絵図を仰せ付けられた時、篠山境目筋は、矢筈山より北は、出井村の小左衛門が調べました。南は、宿毛少兵衛が改め、境目の印を先の住職正善に申し付けて石にほり付け、2ヶ所に立て、今もこの石があります。この事は介丞も確かに知っています。御公儀へ差出しました絵図にも篠山を8組に分け、東の森片矢筈を記しています。宇和領より差上げた絵図には篠山は多分無いと思います。
一、正善は、高山の上下が不自由で、寺を弟子に預け、正木村に居て差図をしていたところ、弟子深覚を新丞が引き入れた、と介丞が巧なことを言っています。堂寺は10ヶ年以前に深覚へゆずり、正善は隠居して板の川に居りましたが、堕落しましたので仲が悪くなったのを介丞が幸と考え、内縁があるのを頼って正善を引き入れ、このように偽りを申させているのです。
一、介丞は篠山の神主と申しあげていますが、これも偽りです。介丞は旦那です。神主はこの方の分大夫と申す者が、先祖より代々神主を勤めてきています。旦那は古より両国にあります。介丞は正木村の庄屋ですので、諸旦那より寺へ用事があった時は、正木村の旦那分は介丞の先祖が世話をしてきていたのです。
一、此頃宇和領より狼籍を仕かけるので、見張りの為に寺内に百姓を2人づつ番に置きましたところ、宇和領よりの参詣を妨げ、理不尽を仕かけたと申していますが、そうではありません。参詣であれば、今でも入れない事はありません。参詣を口実に大勢で押し入り、狼藷をするので、さし止めたのです。狼藷の事は別に申し上げます。
一、去々年6月、宇和島郡奉行伊藤与左衛門、加幡五兵衛が、介丞や正善を連れて高知へ来た時、土左守家老達が、対面もせずに帰させたのを理不尽のように介丞が申しておりますが、この事には理由があります。近年宇和島奉行人が申し付けて、篠山で数度の狼籍があり、同年5月の末には、寺中へ押入り仏を盗み取り、更に宇和島より100人ばかり、土州の梼原の番所を何のことわりもなく押し通ろうとしましたので、番の者が止めましたところ宇和島家老衆より土左守家老共への使者との事でしたので、30余人を梼原へ残し残りの6、70人で城元へ来たので、その地の番の者が注進して来ました。土左守は病気で引きこもりの折、数年来相戦っていた相手の方より、このように大勢で、一応のことわりもなく、城元まで踏み込むとは、あまりの事であると、土左守は立腹し、城下まで入れるな、と申し付けられ、一里手前の朝倉という所へ、西山七郎右衛門、千矢太兵衛をつかわし、ここまで来たわけを聞かせましたところ、盗み取った仏と、つきがねの銘の写を持参したとの事でしたが、あまりにも理不尽なやり方でしたので、家老共は対面せず、朝倉より帰させたのです。(淡輪記11)

正木川より篠山望遠 土佐のいう矢筈 土佐よりの返答書
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