宿毛市史【近世編-土予国境論争-篠山国境争い】

幕府の裁定

土佐藩よりの返答書が出され、意見が真っ向うから対立したので、沖の島公事のように、ここで当然、評定所での裁判となるのであるが土佐藩も内証で事をすますことを望んでいたため、この事件の担当者松平出羽守も、相談扱かいの方法をとったのである。
出羽守は、万治2年(1659)10月16日に、土佐側に次のような裁定の内意を伝えている。
 一、、山上は双方の境を立て、その間を両国の支配とする。
 一、小川平は土佐の境を立て、山も土佐分とする。
 一、そのかわり他の山を伊予分とする。
というのである。
この内意は恐らく宇和島側にも伝えられた事と思う。正木の蕨岡家並びに伊達家の11月4日付の「此度御扱之趣」という古文書にその内容が詳しく記されている。
こうして折衝の結果、万治2年(1659)11月15日に、松平出羽守様扱いによって、相談扱いの裁定が行なわれたのである。その内容は次の通りである。

     覚
一、笹権現堂弥山みせんは、伊予土佐両国支配とする。神主は土佐より、別当は予州より出し、儀式の方法は今まで通りで行うこと。
一、予州の内、正木村庄屋助之丞は、昔から代々笹権現に由緒があるということなので、大檀那の頭人とすること。
一、西小川平は土佐領として渡し、その代地として東小川平の内で、同じ坪数を宇和島領へ渡すこと。
右は今度、土佐領宇和領境目の出入りについて、美作守より出羽守に頼み、相談扱いで、この様に済したのである。
 万治二己亥年11月15日
       松平出羽守内
           伊藤弥兵衛 判
           塩見小兵衛 判
       松平美作守内
           戸塚助太夫 判
 伊達大膳太夫様御内
         珍木仲右衛門殿
         伊藤与左衛門殿
 松平土佐守様御内
         野中伯耆殿
         淡輪四郎兵衛殿
この文書は宇和島藩にあてたのであり、土佐藩にあてたものは土佐側の氏名を先に書いておりその他は同文である。このように、大体宇和島側に有利な裁定となったのであるが、出羽守は土佐藩に対して、「篠山等の床並びに小川平は、検地帳の通り土佐領に間違いないが、沖の島を土佐に勝たせたので、この度は宇和島側の望みの通りにしたいというので、このような相談扱いとなったのである。」といっている。(淡輪記11)
この扱いについて土佐藩が満足したのではない。しかし幕府の大名統制上の政治的配慮を考えれば、沖の島で勝ち、篠山で勝てば、宇和島藩の面目はまるつぶれになる事も考え、裁判をすればこれらの心情が反映し益々不利な判定になる事も考え、仕方なくこの裁定に服したのである。
宿毛の領主山内左衛門佐は、境も決めずに相談扱いでの裁定に不満を述べているが、(淡輪記)これは、後々にまた騒動が起ることを心配しての事であろうと考えられる。
万治2年12月8日、助之丞、宇兵衛達は江戸を出発して、翌年の1月18日に、4年ぷりに故郷に帰った。(蕨岡家古文書)土佐側の少兵衛、彦六、その他の者も相前後して帰ったと思うが、その月日ははっきりしない。
幕府の裁定書 此度御扱の趣
幕府の裁定書 此度御扱の趣