宿毛市史【近世編-土予国境論争-篠山国境争い】

小川平の代山

篠山の頂上弥山みせんを両国支配とし、西小川平を土佐領とし、東小川平を代りとして予州へとの裁定を具体的に協議するため、淡輪四郎兵衛は、万治3年(1660)3月5日、芳奈に宿泊し、7日には楠山に行った。そして宇和島側の代表伊藤与左衛門と12日に正木村で逢い、小川平代山の件で話しあった。
3月14日には双方が篠寺で出合って協議した。その時土佐側からは、淡輪四郎兵衛、藤田彦六、宿毛少兵衛たちが出、伊予側からは、伊藤与左衛門、船山武右衛門、助之丞、宇兵衛、正善、代官加左衛門が出た。協議の結果、堂寺、寺物を改めて土州より受け取った。
21日には小川平に行き、現地で境を決めた。正式に土佐領となった西小川平はあまり問題にはならなかった。一の王子より大山口、石の休場、こざさの峠、梨の木の峠よりおつむきが尾を下って谷川へ出た地域であり、国境争いとして、土佐領か、伊予領かと度々争った所であるので、その境ははっきりしている。しかし、その代りの東小川平の地は、広いとか狭いとかの論が出て、なかなか結論が出なかった。3月23日には四郎兵衛も出て、やっと代りの山の件が成立した。翌24日に伊予側はこの山を受け取り、四郎兵衛は25日に出井へ境を見に行き、29日には、本山に行って兼山にこの事を報告している。(淡輪記9・蕨岡家古文書)
蕨岡家古文書には代山のことを次のように記している。
3月24日に西小川平の代地、東小川平にて受取相済申也。但し土州より庄屋庄兵衛、彦六、出逢い、此方より助之丞、伝之丞、加左衛門、宇兵衛にて傍示所、一の王子より峰続に、ひの峠、念仏場よりおり尾下以上傍示11所に大木にきりこみ致置候。
さて、この西小川平と東小川平について、蕨岡家古文書(元禄12年12月に正木村庄屋助之丞の書いたもの)によると、
東小川平
一、一ノ王子より楠山境峰続ひのとう、おりをのとうよりおりを畝通境の川迄。一里十二丁、但境は水流。
一、一ノ王子より横ノ尾□□□境の川筋おりをの□□迄、二十三丁。
西小川平
一、一ノ王子より山口、尾つつみ、のを通境の川迄、三十丁。但境は畝水流。右之通山は畝水流境、川は川中流(下略)
とあるので大体その様子がわかる。
如何に両藩のめんつを立てての相談扱いとは言え、伊予の国へ土佐領があり、土佐の国へ伊予領があるような、実におかしな国境となったのである。
土佐領となった西小川平は、現在宿毛営林署管内の替地山という山で、今は愛媛県となっている。
伊予領となった東小川平は、もとは国有林であったが払い下げを受けて正木の中田久米太郎氏を経て現在は正木の蕨岡義久氏の所有となっているが、その名もまた替地山で、実面積100ヘクタールの広大な山であるが、今では高知県内になっている。
兼山当時交換した山が、再度交換して現在のようになったのは、明治6年10月の事である。
明治維新の時、神仏混淆を廃止したので篠山観世音寺は廃寺となった。この際両県でもう一度県境について協議をしようということになり、その結果、頂上に石標を建て、水分かれ(稜線)を以て堺とし、東西の小川平(両方の替地山)を元へもどし、篠山神社の一切を正木村で取り行うようにしたのである。(蕨岡家文書)
世間では、愛媛県権令となった宿毛出身の岩村高俊が、篠山と沖の島を交換したといっている。すなわち、篠山を愛媛県の所属とし、沖の島の母島側と鵜来島、姫島をそのかわりとして高知県所属としたというのである。しかし、篠山神社が愛媛県所属となったのは前記のように明治6年10月28日であり、沖の島、鵜来島全域が高知県所属になったのは、その翌明治7年7月7日のことで篠山と同時ではない。
しかも岩村高俊が愛媛県権令に発令されたのは明治7年11月24日、着任は12月18日(岩村高俊の研究)で、篠山と沖の島の新しい帰属以後の着任である。高俊は明治11年に、宿毛湾の海面に境界を定めたいとして高知県と協議して大藤島から、南宇和郡鼻ツラと鵜来島の間の中央を見通した線を県境と定めたのであるが、このことが漁業に大きな影響を与えたので、篠山と沖の島の交換という形で誤り伝えられたのであろう。

小川平の図 篠山の木形(小川平の部分) 篠山頂上への石標建立と東西小川平の交換 篠山国境石標、明治6年建立
小川平の図 篠山の木形
(小川平の部分)
篠山頂上への石標建立と
東西小川平の交換
篠山国境石標、
明治6年建立