宿毛市史【近世編-土予国境論争-篠山国境争い】

篠山堂宮の造営

幕府の仲裁々定により、篠山は両国支配となったのであるが、その後は堂や宮をどのように造営したかを説明したい。
篠山の堂宮には次のようなものがあった。
一、権現堂、一、同拝殿、一、天狗堂、一、辺路屋、一、鐘突堂、一、一の王子堂、一、観音堂
これらの堂宮は、両国共有のものであるが、これを建立する時には詳細な設計書を作り、これらの堂宮を2つに分けて、くじ引きをして、くじに当った堂宮を、その国で造営するという方法がとられている。
この第1回の造営が、寛文10年(1670)であるが、その時の堂宮の設計の一部を出してみると次の通りである。
一、権現堂 但三軒宮ながし作、三ッ堂構、大間四尺二寸、柱大さ五寸五分、丸柱
一、大間向三間板唐戸、金物赤金、軸釣錠前座金共
一、四方霧隠之惣蔀 但前三間分戸2枚宛入、後には戸1枚入
一、屋根 小曾木葺 但五歩六歩足 槇か杉にて曾木の厚さ一歩
一、棟は箱棟
一、戸前1つおとしにして鍵1つ、脇分内よりしめ申筈也、其外金物遣所委細は小口割差図有
一、高欄金物なまつ有り
一、右材木物様、槇、桧小節有、但小屋分は松、栂、縦にて仕筈也
一、右の外可仕様大抵定之通、并地引ならし申共
一、仏具1面并金燈籠2つ戸帳共
一、畳10枚
一、同拝殿(以下省略)
というふうにすべての堂宮、石垣の造営にいたるまで、定めている。(都築家文書、蕨岡家文書)
そしてこれを2分して、くじ引きをしたのであるが、その時士佐側が造営することになった分は、次の通りである。
一、観音堂 但し三間四面、3つ堂作り、高さ一丈弐尺、大間六尺三寸、屋根小曾木葺也、御拝殿は大間分にあり
一、一の王子堂、但弐間四方、向は三間にわり有之
一、鐘突堂、但壱丈四方、2重にして下は門なり
一、辺路屋、但弐間に四間
一、観音堂と寺との間の廊下弐間四方
これを土佐側で、9月限りに指図注文の通りに仕上げるという約束の文書を近森六右衛門、亀屋作兵衛、楠山村庄屋仁兵衛、藤本源兵衛連名で、宇和島側の、小島甚之丞、桐島伝之丞、村上新之丞、正木村庄屋助之丞、渡辺平右衛門あてに寛文10年4月27日に出している。(都築家文書)
おそらく、同様の約束文書が宇和島側からも出されているにちがいない。宇和島側がくじを引いて受け持った所は次の5か所である。
一、権現堂 但三軒宮ながし作、三ッ堂構、大間四尺弐寸、屋根小曾木葺也
一、同拝殿 但弐間に参間、高さ八尺五寸、屋根小曾木葺、四方屋根作也
一、天狗堂 但弐間四方、高八尺五寸、ひじき作、屋根は方形、棟ふくばち小曾木葺也但大間御拝付きざはしあり
一、寺但四間に十間、板葺なり、ひさし一間に八間分あり
一、寺前石垣長さ二十三間折廻し、高さ、くりの下八間、中にて六間、遍路屋の下四間
この時に造営された堂宮は、たとえ土佐側が建てても、両国共有のものであるので、その棟札には両藩の殿様の名が記入されている。但し、建てた方の国の殿様の名を右側に書き他の殿様の名は左側に書いている。
土佐が建てた観音堂の棟札
    /―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
   /                        奉行人 国沢源左衛門元重 梶浦孫之允正勝 |
  / 従4位下侍従兼土州刺史松平氏藤原朝臣豊昌    大 工 木村理左衛門広次         |
 /                          小 工 熊瀬次郎左衛門吉家        |
   奉再興笹川観音堂一宇金輪聖王天長地久御願円満処                       |
 \                          奉行人 星弥市兵衛吉次 小島甚之丞重長  |
  \ 従4位下行拾遺兼遠江守伊達氏藤原朝臣宗利    大 工 村上新之允重次          |
   \                        小 工 土屋孫左衛門正吉         |
    \―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
裏に
 南無堅牢地神興諸春属南無五帝龍王侍者眷属
 当寺住持法印権大僧都栄真楠山村庄屋仁兵衛正木村助之允
 寛文10庚戌年9月吉祥日

予州宇和島が建てた権現堂の棟札
    /―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
   /                        奉行人 星弥市兵衛吉次 小島甚之丞重長  |
  / 従4位下行侍従兼遠江守伊達氏藤原朝臣宗利    大 工 村上新之允重次          |
 /                          小 工 土屋孫左工門正吉         |
   奉再興笹大権現堂一宇金輪聖皇天長地久御願満処                        |
 \                          奉行人 国沢源左衛門元重 梶浦孫之允正勝 |
  \ 従4位下行拾遺兼土佐守松平氏藤原朝臣豊昌    大 工 木村理左衛門広次         |
   \                        小 工 熊瀬次郎左衛門吉家        |
    \―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
裏書は前と同様。

このように宇和島が建てた権現堂の棟礼も、はじめ両国殿様の名があったが、元禄10年(1697)延享2年(1745)明和4年(1767)と造営の時代が下がるにつれて、造営した伊達氏だけの銘入りの棟礼となっており、はじめのしきたりは、次第にうすれている。(都築家文書)
たとえ宇和島藩で建立した権現堂であっても、両国共有のため、その鬼板(鬼瓦に相当する板)は無紋が原則であった。しかし、この権現堂が、享保6年(1721)に風で破損し、宇和島藩で修理をしたのであるが、その時、鬼板に伊達家の九曜紋を書いてしまったのである。そのため土佐から異議の申し立てをし、ついにその紋を削除した一幕もある。
宇和島藩の建てた権現堂の遷宮式が、明和4年(1767)にも行なわれているが、その時も伊予、土佐両国から全く対等に人々が出て式典を行なっている。(都築家文書)
このように、建立そのものは、堂宮を2つに分け、くじ引きで行ない、その後の修理も建立した方で行うが、あくまで堂宮は共有であるので、棟札は両藩の殿様の名を書き、鬼板は無紋で、遷宮式も両国から対等に出て行っているのである。これが、時代が下るにつれ鬼板に伊達家の紋をつけたり、棟札に伊達家のみの名を記したりするようになり、土佐側の抗議となったりしたのである。両国共有という変則的な国境解決であったため、後々までやはり問題が発生しているのである。

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