宿毛市史【近世編-藩主の巡見と幕府の巡見使-】

藩主の巡見と宿毛

多くの藩主は領内を巡視して、民情を視察しているが、その中で宿毛と関係のあるのは次の通りである。

1、初代藩主一豊の巡見
山内一豊は慶長6年(1601)1月に入国し、2月には可氏を宿毛に配し、4月には一豊自ら国内を一巡して、領内の地勢、産物、民情を視察した。この時当然宿毛にも来たと思うが、明らかな記録は残っていない。

2、2代藩主忠義の巡見
寛永12年(1635)忠義が江戸から帰国する時、松山に立ちより松山藩主松平隠岐守定行を見舞っている。忠義の妻は松平定勝の女で、定行も定勝の子で、忠義と定行は義理の兄弟であった。
定行を見舞った忠義は帰途豊予海峡を通過して宿毛湾の大島に入り、宿毛に上陸して宿毛土居(領主の居館)に2日間滞留した。当時の宿毛領主は、2代の定氏であったが、その時藩主忠義より刀、太刀、黄金、馬代、樽、肴等を拝領した。その後忠義は柏島に行き、柏島の守護、祖父江志摩の宅に寄った。志摩は御膳をさしあげ忠義より脇差を拝領した。(伊賀家々譜)
その後で忠義は古満目の三浦助左衛門の宅により、足摺参詣をして帰国している。(御四代記)

3、3代藩主忠豊の巡見
寛永16年(1639)忠豊も国内を巡見して宿毛にも来ている。宿毛領主2代定氏は、この時藩主より刀、樽、肴を領している。藩主はその後柏島の、祖父江志摩の宅に行っている。(伊賀家々譜)

4、4代藩主豊昌の巡見
寛文11年(1671)10月11日、豊昌は216名という大人数で西郡巡見のために高知を出発した。
10月16日辰の下刻(午前8時過)中村を出発し有岡の真静寺で昼休み、和田へ山内省太郎(後の4代領主倫氏)が御迎えに行き、申の下刻(午後4時過)宿毛に到着した。時の宿毛領主は3代の節氏であった。
宿毛では直ちに土居に入り、節氏へ太刀一振、馬代銀30枚、時服4、樽肴一荷を、省太郎には太刀一振、銀1枚、時服3を、その他の家来の者、弘瀬次郎兵衛、安東半兵衛、田村彦右衛門へは小袖1つ、胴服1つずつを、50石以上の18人の者へ銀1枚ずつ、50石以下の9人へ銀1枚ずつを下さった。
節氏は、料理、酒を差上げると、豊昌公は秀光の刀を下さっている。この夜は節氏の館に一宿し、翌17日、辰の上刻(午前7時過)かごで宿毛を出発家来の主な者は門前で御目見を仰せつけられた。節氏は貝塚を通って錦までお供をした。藩主は錦で船に乗り、海上を通って柏島に行き、柏島守護安東縫殿の屋敷に入っている。(西郡御巡見の記)

5、12代藩主豊資の巡見
文化11年(1814)2月25日、豊資が巡見の途次、宿毛へ一宿している。その時の宿毛領主は、10代の氏固であったが、太刀の目録、馬代銀10枚、樽肴を拝領した。夜は海防のことを尋ねられ、大小の鐔と、獲物の小鳥一つを下さっている。(伊賀家々譜)

6、13代藩主豊煕の巡見
弘化2年(1845)豊熈が西郡、を巡見し、その記録として西巡紀行が残されている。
9月28日高知を出発、10月10日朝中村を出て具同、楠島、荒川を経て山田の庄屋浜田市蔵宅にて昼食、平田を通って押ノ川の市山で休憩、そして宿毛に入り、宿毛土居で宿泊している。(西巡紀行より)
この時の宿毛領主は10代の氏固で、藩主より太刀、馬代銀10枚、樽、肴を拝領し、夜は寝所で、異国船の警備を油断なく行うよう注意を受け、脇差(越中守正俊)一腰、鴨三番を拝領、氏固よりは菓子、氷餅、矢羽、畔鳥等を差上げた。(伊賀家々譜)
翌11日は夜明け頃、松田川を船で渡り、三倉坂で休憩、田ノ浦で休み、山坂を経て小筑紫に行き小休をしている。ここで昼食をとり、福良川を渡り馬路峠で休み、橘谷山で猟をしていのししとしかとで5頭を獲っている。その夜は弘見覧の庄屋安岡十左衛門宅に宿り、12日には研森で猟をし、しか4頭、いのしし1頭獲り頭集昼食、そして柏島に渡って法連寺に宿泊している。13日は大戸山で猟をし、しか8頭を獲っている。(西巡紀行による)
国主の巡見といっても鷹狩りをしたり、猪狩りや、鹿狩りをしながらの旅であるので、かなり楽しい旅であったと思われる。なおこの猟の記事からも、当時幡多の山野にはしかやいのししが相当多く居たことがわかる。

忠義巡見(伊賀家々譜) 豊昌巡見
忠義巡見(伊賀家々譜) 豊昌巡見