宿毛市史【近世編-藩主の巡見と幕府の巡見使-】

幕府の巡見使と宿毛

江戸幕府では、将軍の代替り毎に、巡見使を各地に出して、治世の様子を視察させたのである。
巡見使は上使、従使、副使の3名で、甲浦から入った場合は、高知を経て宿毛から伊予に出、伊予から宿毛に入った場合には、高知を経て甲浦から阿波に入っている。
これらの巡見使の報告によっては、幕府のきげんをそこねることもあるので、藩主はたいへん気をつかい、家老を接待役として半年も前から準備をし、巡見使のお供には、100名近い者が従って、接待に務めている。
巡見使の入国を高知県歴史年表より抜き出してみると次の通りである。
   土佐入国の幕府巡見使
1、寛永10年(1633)5月、幕府巡見使溝口伊豆守一行来国
2、寛文7年(1667)5月、 幕府巡見使一行来国
3、延宝9年(1681)6月、 幕府巡見使駒井次郎左衛門一行来国
4、宝永7年(1710)6月、 幕府巡見使宮崎七郎右衛門来国
5、享保2年(1717)5月、 幕府巡見使大久保源太左衛門一行来国
6、延享3年(1746)6月、 幕府巡見使富永織部等来国
7、宝暦11年(1761)5月、 幕府巡見使大河内善兵衛来国
8、寛政元年(1789)5月、 幕府巡見使池田雅次郎来国
9、天保9年(1838)4月、 幕府巡見使平岩七之助来国

これらの巡見使は、すべて宿毛を通過し 宿毛に宿泊したはずである。しかしそのすべてに記録があるわけではなく、宿毛との関係が記録のうえで判明しているのは、延宝9年、宝暦11年、寛政元年、天保9年の4回だけである。以下これら宿毛との関係の判明しているものを記してみる。

1、延宝9年(1681)の巡見
5月17日、幕府の巡見上使駒井次郎左衛門一行が甲浦に着いた。着く前から準備はすべてできているが、それらの状況は村継の方法で各村々に知らされた。国内に14泊の予定であるので6月1日に宿毛に宿泊、翌2日に伊予に入る子定であるが、天候の都合では留るかもしれない。地高や免付、諸掛物、浦手、分一等のいわゆる税金関係のことも聞かれるので、そのつもりでおられたい等も知らされている。
そして、宇和島藩とも十分に連絡をとり、両方の相談で、松尾坂の国境を越えて伊予領の小山で人馬の継替をするのが当然であるが、小山が狭いので、先回の御上使の時のように弘見で継替をすることとしたのである。
巡見使一行の土佐での状況は、すべて宇和島側に飛脚をつかわして知らせている。
一行は、雨のため日程がおくれ、高知城下へは25日に入り、そのため6月5日宇和島領へ入る予定となったが、またまた雨のため予定がおくれ、4日に中村着、雨のため四万十川を渡ることができず、しばらく中村に滞在、やっと8日の朝、水が少くなったので中村を出発して未の下刻(午後3時)に宿毛に到着している。
宇和島藩からは、役人の上村半六を宿毛までよこして、その接待ぶりを視察している。
宿毛を翌9日に出発し、松尾坂を越えて宇和領に入ったが、小山には宮川又左衛門が出迎えに来ていた。(幡多郡中工事訴諸品目録元和元年より)
宇和島藩の巡察を終えた一行は、豊予海峡を渡って豊後国に行っている。
このように土佐から伊予に入った場合は、土佐の方からすべての状況を伊予に報告して、引き継ぎがうまくいくように気をつけている。伊予から土佐に入った場合にも、おそらくこのような方法で連絡をとりあったのであろう。

2、宝暦11年(1761)の巡見
この年5月、幕府の巡見上使大河内善兵衛、遠山織部、市原左膳が来国した。これに備えてこの時の接待役を仰せ付けられたのが、宿毛領主7代の源蔵氏篤で、半年も前の、宝暦10年11月4日に命ぜられている。
無事に務めを終え、8月25日に解任となったのであるが、藩主はその労をねぎらうため帷子と単物を氏篤に与えている。(伊賀家々譜より)

3、寛政元年(1789)の巡見
五月三日、幕府の巡見上使池田雅次郎、諏訪七左衛門、細井隼人が来国し、宿毛土居に宿泊しいる。その時の領主は8代の保氏である。(伊賀家々譜より)

4、天保9年(1838)の巡見
巡見上使平岩七之助、従使片桐靱負、副使三枝平左衛門が、4月23日に宿毛土居へ宿泊し、10代の領主氏固はその宿をつとめている。(伊賀家々譜より)
この時の巡見は、伊予から宿毛に入り、高知へと向って行ったのであるが、土佐藩では家老孕石小左衛門が、約百名近い家臣を率いてこれに従っている。この時の巡見の準備の記録が、中村市横瀬の故多和重雄氏宅に残っている。この文書は、多和氏の先祖、幡多郡佐賀町荷稲かいなの庄屋山崎与五郎が書いたもので、荷稲では、巡見使が一休みするだけであるが、その小半時の休息のために、約半年間もかかって準備をすすめていたのである。
休憩のための家や湯殿の新築、たいまつ100束、わらじ100足、刀掛30、梅づけ5升、むしろ100枚、あんどん、しょくだい、びょうぶ、障子、さかづき、さら、ちゃわん、机、すずりに至るまで準備をしている。
荷稲では休息するだけであるが、天候の都合で、宿泊する場合もあり得るので、大がかりな準備を命ぜられていたのである。
このような準備が藩内各所で行われたのであるから、巡見使を迎えることは、全く大変な事であったにちがいない。巡見使の報告一つで、或は藩の取りつぶしという事もあり得るので、藩としても家老をはじめ多くの家臣を随行させ、十分に接待を行なっているのである。

御上使巡見について宇和島藩への連絡 松尾坂の国境 天保9年巡見記録
御上使巡見について
宇和島藩への連絡
松尾坂の国境 天保9年巡見記録