宿毛市史【近世編-文化人と宿毛-】

赤穂義上の遺墨と東福寺

宿毛の東福寺(現東福院)の6世の住職に、名を月海、あざなを白明という僧が居り、大高源五等4人の赤穂義士の遺墨を持っていた。
白明は土佐郡森郷の生まれであるが、元禄15年(1702)の春、19才の時、土佐を発して江戸に行き、芝高輪の泉岳寺に寄宿していたのである。
この年12月15日の暁方、あの有名な、赤穂義士の討入りがあり、40余人の義士達が、大石内蔵助を先頭に、着衣を血に染めたまま、泉岳寺に来たのである。
義士たちは、旧主浅野長矩の墓にもうで、吉良上野介の首を供えて仇を討ったことを報告し、やがて泉岳寺の玄関にやって来て、大石が代表して挨拶をした。寺では大石父子及び老人は寺に上り、若い方々は衆寮に上って火にあたるように申したが、大部分の者は衆寮に行った。寺では早速粥を出して接待をした。
白明は衆寮に行って給仕をしたのであるが、義士達は疲れて腹がすいていたのか粥をたくさん食べた。粥がすんだ後、茶受けを出し、更に茶を出して、風呂に入るようにすすめたが、「討手が何時来るか右わからない。風呂どころではない。」と風呂には入らず、そのまま横になって多くの者が眠った。その後、寺では朝食を出し、白明もまた給仕に出たのであった。
40余名の義士達は、皆右の肩に、姓名を書いた金紙をつけていたが、木村岡右衛門貞行のみ別に左肩に法名、英岳宗俊信士と6字の紙をつけていた。白明が、その法名は誰より受けられたかと問うと、播州の蟠渓禅師であると答えた。蟠渓は有名な禅師である。その人に法名をつけてもらっているので、その禅門に入っているにちがいないと思った白明は、昨夜の辞世、或は今朝の即興を是非書いていただきたいとお願いした。
しばらくして木村は懐紙を取り出し、即興の和歌を書いた。

  本意をとげはべる頃仙岳禅寺に到りて
 思ひきや我武士わがもののふの道ならで
  かかるみのり(御法)えん(縁)にあふとは
           木村貞行稿 45歳
            英岳宗俊信士
 木村貞行の右の手の傷口から血が落ちて紙をよごした。木村は書き替えようとしたが、白明は、その一滴の血痕が、かえってよい記念である。是非それをいただきたい、といってそれをもらった。
次の席には茅野和助が居た。茅野にも何か書いてくれと頼んだ。
茅野は懐紙を持っていなかったので、白明が懐紙を出すと、

                   茅野和助常成
   天地の外はあらじな千種だに
    もと咲野辺にかるるとおもへば
       発句
   世や命咲野にかかる世やいのち
と書いてくれた。
岡野金右衛門にも所望した。岡野はことのほか辞退したが、是非にという白明の頼みに、

   上野介殿といふのしるし(首)をあげて
   亡君にそなへ侍るとて
         放水水岡野包秀
   其匂ひ雪のあちらの野梅かな
と書いてくれた。
次に大高源五に頼んだ。大高はしばらく考えたすえ、

         凌霜亭 子葉
   山をさくちからも折れて松の雪
        大高源五忠雄 31
と書いてくれた。白明はこれらの義士達から後世の回向を頼まれた。
武林唯七、神崎与五郎などは他の僧に和歌などを書いてやっていた。白明もまた頼んだが、ちようど飯ができたので書いてもらうことができなかった。
その後、衆寮に居た義士達も寺に集まり、大石内蔵助が丁寧に寺へ礼を述べ、行列をなし、手負い6人は駕籠に乗り、大石父子が先頭となり勇ましい様子で寺を出て行った。
やがて大石たち47士は預けの身となり、翌元禄16年(1703)2月4日切腹させられ、その遺骸はすべて泉岳寺に葬ったのであるが白明はその時にも立ち会っている。
その後白明は越前の永平寺に行き、享保3年(1718)の春、義士の遺墨を携えて帰国し、やがて宿毛東福寺の6世の住職となったのである。白明は72才の宝暦5年(1755)に義士遺墨の由来を詳しく語り、これを戸部良が記したものが『白明話録』で、貴重な義士資料となっている。(以上『白明話録』による)
白明は隠居して橋上清学寺に居り、明和元年(1764)81オで没した。白明の墓は橋上の清学寺の境内にあるといわれているが、墓石に月海とか白明とかの名を記したものもなく、戒名も不明である。
義士の遺墨は代々東福寺の宝物として伝えられてきた。明治5年13代住職梅泉は、伊賀家の恩にむくゆるために、義士の遺墨をすべて伊賀家に納めた。
今東福院には、その遺墨やそのいわれを記した写真が残っているだけである。

木村貞行書 茅野和助書 岡野包秀書
木村貞行書 茅野和助書 岡野包秀書
大高源五書 伝白明の墓 白明の書
大高源五書 伝白明の墓 白明の書