宿毛市史【近世編-文化人と宿毛-文学者の宿毛来訪】

谷真潮の『西浦廻見日記』と沖の島の歌

谷真潮は谷秦山の孫で、谷家の学問を受け継ぎさらに加茂真渕に学んで和歌をよくした。浦奉行となった真潮は、安永7年(1779)土佐の海岸を歩き、『西浦廻見日記』を残し、沖の島では和歌を詠んでいる。儒学者、国学考、歌人として多くの著書もあり、後には郡奉行兼普請奉行を経て大目付になった人である。『西浦廻見日記』によると、安永7年(1778)5月6日、高知を出発し、5月9日入野泊り、10日に宿毛に人って坂ノ下泊り、11日は小筑紫、12日に柏島に泊っている。その間相当詳しく土地の状況を記しているが、その一部分をほんの少しずつ出してみたい。
「山田土地広し、家400軒余有といふ。」
「押の川板をこして経塚有、この左の方にこもり城という墟有、和田村送り番所有、宿毛の御土居を右にして川辺をつけて小道より坂下に行、かけや善太夫にやどる。」
「松尾(松尾坂)の下にて宿毛の塩浜ありしよし。川浅せにて水塩浜の方へゆきて塩に実なく止りしよし也。初播州より塩たき弐人呼来り仕成せしよし也。北浜辺塩かふはもはら、はりま、赤稲、豊後等より来るよし。」
浦奉行であった真潮は宿毛の塩浜のことを記しておる。結局製塩は止まっており播磨、赤穂、豊後より塩を買っていることがこの文で判明する。
真潮は11日、船で坂ノ下を出発、湊浦に上陸したが、湊浦は新しい家も数々あって勢よく見えたという。伊予野村については、
「人家62軒、人高240余人、土地がらよろしく見ゆ、番屋の城という墟高くて有、ここに狼煙場有。」
小筑紫小学校の北の山上が番屋の城で、古城跡であり、ここにのろし場があったのである。小筑紫では七日島のことなどを記している。栄喜浦については、
「舟にて榊浦を見る、谷々に家1軒2軒有、鰹などとる網代家の下に有。」とあって家のすぐ下でかつおもとれていたようである。
「小づくし庄屋六郎兵衛は、8代ここに居、本氏は佐竹也。この浦、昔は家40ばかりも有しよし、六郎兵衛覚えては、家25軒ありしか、それも減じて今は17軒ある也。きのふ通りし伊予野は、奥内郷のうちにては、先は宣しき村也。福良村などは奥内にては中にもあしき也。干損を、水損をもする所也。」
小筑紫は当時家が17軒、伊予野は良い土地であるが、福良は早魃、水害がひどく、収穫の少ない悪い村だといっている。
小筑紫から泊浦まで行き、ここで船に乗って一度天地(安満地)に上陸、再び船に乗り柏島に着いている。ここで沖の島のことを左のように記している。
「其西に沖の島手にとるごとくて有、壱里半有といへど荒磯にて舟つくることあたわず。広瀬の方は遥に南へ廻りて3里の余もあり、潮はやく浪風ある所にて舟のりにくく、渡りがたし。伊与の方へは渡りよく、舟つきもよしとぞ。されば急用には伊与領へ舟をつけて状等をもつかはすよし。浪おだやかなりと見ゆれど、島守の次郎八も来らず、いかにぞやとあやしむ程なるに、所のものはわたりなるまじといふ。」
谷真潮は翌安永8年(1779)沖の島に渡り、明厳寺に止宿して次のような長歌並びに短歌を詠んでいる。
   安永己亥5月廿1日巡視して沖の島に至り詠歌一首并に短歌
                       大神真潮
土佐の海、西のはてなる、沖の島、波風はやみ、常にしも、渡りかぬとふ、彼の島に、いこぎ渡れば、わたつみの、神もゆるすや、難波江の、芦の磯辺の、をりのりに、舟はてしつつ、伊予土佐の、境ふみこえ、我が心、広瀬の浦の、山のさき、磯のくま々、住む民の、立る煙の、よすがをも、其の名所などころも、山すげの、ねもころころに、見あきらめ、聞あきらめて、事終り、磯に立つつ、思うくま、浪路はるかに、豊国ゆ、日向地かけて、天つたふ、夕日の空に、さやかにも、見渡す思、かぎりなきかも
 反歌
夕日さす海原遠く見渡せば、豊国も見ゆ日向路も見ゆ

西浦廻見日記(県立図書館蔵) 谷真潮の沖の島を詠める歌
西浦廻見日記(県立図書館蔵) 谷真潮の沖の島を詠める歌