宿毛市史【近世編-文化人と宿毛-文学者の宿毛来訪】

防意軒半開の幡多郡紀行

安政5年(1858)3月防意軒半開は松吉氏耕仙主人と従者亀次をつれて幡多の地を巡遊している。この時の記録が『幡多郡紀行』で、橋田残丘氏が土佐史談(119、120、122号)に発表したものである。俳人半開を迎えて宿毛では連歌の会を開いており、当時の宿毛の俳譜の水準を知る上でも貴重な記録である。
3月7日に高知を出発し、行く道々俳句を作って須崎、佐賀を通って12日に中村に入った。3月14日朝中村を出発して、昼食を有岡でとり、途中延光寺に参拝し、押ノ川、和田を経、川を舟で渡って宿毛へ入り、芦雪の嫡子岩村左内の迎えをうけ、岩村宅へ泊っている。(岩村左内は岩村通俊のことで、父は岩村礫水である。芦雪は礫水の俳号)
翌15日の昼過ぎ、東福寺の住持に招かれて東福寺へ行き、赤穂義士の遺墨を見せてもらい
   まのあたり見るや昔の墨の花   半開
と詠んだ。その後東福寺の茶室で茶をふるまわれ、居間で半開の句を立句にして俳諧興行を行っている。参会者は半開、耕仙、芦雪(岩村磯水)、翠波(宿毛町老麻助)、眠子、其鶴である。眠子と其鶴は共に宿毛の人と思われるが、その本名は不明である。その時の連歌は次の通りである。
五六反地面もしきて山桜 半開
  床几を借ればしゐる草餅 芦雪
風流に住める祖父婆々麗々 眠子
  古き捷の今もかはらじ 其鶴
船底へ生け置く魚の直も出来て 耕仙
  六ヶ敷碁を快よふ勝 翠波
月代を東しらみと取り違へ 芦雪
  虫の世界となる嵯峨の里 半開
そよと吹く嵐に薫る蕎麦の花 眠子
  針の咎めを摩する椽向 芦雪
遠くても思ひは届く雲の上 半開
  糸より細る水無月の滝 芦雪
生茂る草も暑さに葉を巻く 眠子
  駕籠を出れは眠り覚めけり 其鶴
御明しに壁もきらめく新分限 芦雪
  家毎にかかる降己屋の代 半開
真盛りの花に主じの人もなし 其鶴
  岩を屏風に鹿の安産 芦雪
 日暮頃連歌の会を終り、また芦雪の家に泊ったが、芦雪と翠波より挨拶の句を送ってよこしたので、半開はそれに下の句をつけている。
  たまたまの半開君を草庵にむかへ奉りて
待ほけて山家も曠や山桜 芦雪
  旅の因みも深き春の日 半開
  はじめて防意軒の君にまみへて
束帯に交るや雛の髪奴 翠波
  つきぬ遊びにおしみ合ふ暮 半開
辰の刻(午前8時)宿毛を出立したが、その時の宿毛の状況を
「寅の大変波打込み、或は出火にて家居新しく、半造作己屋懸もあり、中市川船渉、此渡まで芦雪嫡子見立来る」
とあり、嘉永7年の大地震後の宿毛の状況を伝えている。
「坂の下より御鞍坂に懸る。土人めくら坂といえり。
霞みけりさらでも爰はめくら坂  半開
峠より笹山与州の山々見ゆる。坂を下りて田ノ浦浜へ出て、うぐる島、藻島(母島)、沖ノ島辺迄一眼に遮る。ヘンロ坂と云小坂有、又薬師坂共云、薬師堂有しとぞ。呼崎坂を越へて呼崎を過、小坂峠に響きの松の古跡あり。」
と宿毛から小筑紫までの道程を記し、
「往昔菅相公9国へ遷されさせ給ふ御時、此処に御船入し故、浦の名を小筑紫と云。七日島に湊口在。七日此島に御滞船ありしとぞ。往き合ひの潮は左右より潮さし込みて七日島にとどひ給ふ。綱掛松又鞍が浦は御鞍を打せ給ふ所となん。
   呂の調鞍ヶ浦ぞ奪ひなき   半開
と吟ずれば
   七日島に渡り間近き小筑紫の
     右と左と往きあひの塩
と耕泉続けて、辺りの小店に腰を懸(川口屋と云)珍らしき小かはらけを調へて出づ。小坂を越る。眼下貝拾ふ人多し。船渡あり。小坂2つをよぢ越へて弘見坂に至る。」
こうして弘見、浦尻、平山を経て観音岩を見て柏島へ泊っている。翌17日は柏島の山上に登って沖の島を望見している。
「頂上遠見番所在り、坂を登る事14丁、九州路ほのかに見へ、与州路島々、母島、沖ノ島、びろう島、姫島眼下に見え遠眼鏡をもて眺望す。朝霞配り出しけり島の数     半開」

七日島
七日島