宿毛市史【近世編-文化人と宿毛-伊能忠敬の宿毛海岸測量】

伊能忠敬の測量

伊能勘解由忠敬は、はじめて正確な日本全国地図を完成した人である。
延享2年(1745)今の干葉県の片田舎に生まれ、18才で伊能家の養子となり、名主もつとめ、そのかたわら算数、測量、天文等の研究も行なっていた。50才の時、家を長子にゆずり、翌年江戸に出て、幕府の天文方、暦学の研究家高橋至時の門人となった。
当時、ロシヤの軍艦が我が国の沿岸に時々出没しだしたので、にわかに海防の事が論ぜられだし、正確な地図の必要が生じたので、幕府は忠敬に海岸測量を命じたのであった。時に忠敬52才。その後全国の海岸を歩いて測量すること実に18年、ついに精密な日本地図3種、すなわち3万6000分の1の全国の大図、21万6000分の1の中図、43万2000分の1の小図を作製して幕府に提出したのである。この地図は最近まで我が国地図の規準をなしたものであるという。
忠敬が土佐の海岸を測量したのは、文化5年(1808)で、忠敬64才の時である。この年。1月25日、幕府より四国地方沿岸測量の命を受け、直ちに江戸を出発して、2月に大阪に着き、淡路島の沿岸を測量しつつ、3月16日に阿波国撫養に渡り、ここから四国沿岸の測量が開始されたのである。
この時の一行は次の通りである。
伊能勘解由忠敬
下役坂部定兵衛 柴山伝左衛門正弼
 下河辺政五郎 青木勝次郎勝雄
内弟子稲生秀蔵   植田文助
 久保木佐右衛門
供侍神保庄作
竿取佐助 善八
他に家来5人
合計16人
この一行16人は、2組に分かれて測量をしている。1日の行程を2分し、1組は伊能忠敬が率い、他の1組は坂部定兵衛が率いている。ほとんどの行程を伊能組、坂部組とに分れて測量しているので、坂部も相当な技術の持主であったことがわかる。他の者はその時々の状況で、適宣両組に組み入れられて測量を行なっている。地図の作製には伊能、坂部、下河辺、青木、稲生達があたっているが、主として下河辺が当っているようである。
一行は4月19日に土佐に第1歩を印し、その日甲浦に宿泊し、翌20日伊能組、坂部組の2つに分れていよいよ土佐での測量を開始した。この時の測量の様子を松山秀美氏は次のように述べている。
「超願寺の門前にて土佐測量の第1着手をした。門前には幕を張り、象玄儀を据付け、測量器械を並べ、二丈六、七尺の竹に赤白青3色の布幟を樹てた。これは測量旗である。夜間は北極星の高さを観測して分度を測ったが浦人らは雲集して驚異の眼を見はった。廿日は伊能班、坂部班の2手に別れ、藤にて作った長さ三十間の丁繩を以て海岸の浪打際を引き廻し、何町何間と記帳し、又磁石計を以て方位を定め一行の中の青木勝次郎が画に巧みで、巻紙に詳細に写生していった。然し第1日はどうして測量するのか不案内の事とて、用意も行届かず、測量使は道がふさがって通れぬので大に立腹し、接伴役は散々にしかられ、甚だ不首尾であった。」(土佐史談、松山秀美、伊能忠敬の土佐測量地図について)

伊能忠敬の測量日記(帝国学院蔵)
伊能忠敬の測量日記(帝国学院蔵)