宿毛市史【近世編-文化人と宿毛-伊能忠敬の宿毛海岸測量】
宿毛海岸の測量
6月12日は沖の島の測量を行なっている。病気の柴山と、荷物番の久保木を残して一同が6ッ(午前6時)後に乗船して柏島を出発し、沖の島の東岸、伊予土佐の境である下乗に5ッ半(午前9時)頃に着いた。ここには宇和島藩より郡方横田儀兵衛、森丈右衛門、郷目付今田善右衛門、案内役として正木村庄屋蕨岡助之丞、僧都村庄屋九左衛門がすでに来て待っていた。
一行は直ちに手分けをして坂部組(坂部、文助、善八)は下乗よりはじめて宇和島領母島浦までを測量し、その夜は徳法寺へ泊った。伊能組(伊能、下河辺、青木、稲生)は下乗よりはじめて土佐領沖の島弘瀬浦の山上までを測り、7ッ(午後4時)頃に弘瀬浦へ着いて、中島屋善左衛門を本陣とし、久佐屋友之丞を脇宿として宿泊した。
6月13日、伊能組は弘瀬の土佐、伊予の国境より測量をはじめ、昨日測量を止めた弘瀬浦の山上までを測り、それより岬へ向い、さらに海岸を測った。坂部組は母島から測りはじめ、古矢浦(古屋野浦)を経て弘瀬の国境までを測り、両組は弘瀬で合流して、4ッ半(午前11時)頃に乗船して8ッ半(午後3時)頃に柏島に着いている。
6月14日は柏島を1周して測量し、15日には安満地、橘浦を測って橘浦へ泊り、17日には泊浦付近を測量したが、忠敬が病気となり橘浦へ逗留した。
6月17日、忠敬は病気のため、この日の宿泊先小筑紫へ船で先行した。青木も製図のため同乗し、残りの者は昨日測り終りの古泊浦よりはじめて榊(栄喜)浦のタツチまでを測って8ッ半(午後3時)ころ小筑紫に着いて宿泊した。本陣は米屋千蔵、脇宿は米屋寿平の家であった。18日と19日は雨のため小筑紫へ逗留した。
6月20日、伊能組(伊能、下河辺、青木、稲生、庄作、藤吉)は本陣下より測量を開始して七日島の周囲を測り、海辺を通り大海を経て小筑紫に9ッ半(午後1時)頃に帰った。坂部組(坂部、柴山、文助、善八)は小筑紫の宿下より測りはじめて、福良を過ぎ榊浦のタツチまでを測り、17日の測り終わりに接続させ、8ッ (午後2時)前に宿に帰った。この夜も曇っていたが、やっと晴れ間に測量をし、小筑紫を北緯32度53分半と測定した。
6月21日、伊能組(伊能、下河辺、柴山、稲生、佐助、庄作、藤吉)は船に乗って小筑紫を出発し、大島へ着いた。直ちに庄屋の家の下より測りはじめ人家を右に、海を左に見て大島の半周を測量した。更にこの組は2つに分かれ、伊能、下河辺、庄作、藤吉は桐島の一周、咸陽島を測り、柴山、稲生は大峠島 (大藤島)の1周を測った、途中で雨となったが雨をおかしてやっと測り終った。
坂部組(坂部、青木、文助、善八)は湊浦より測りはじめて内ノ浦外ノ浦を測り、小浦を経て小浦崎までを測ってこの日の測量を終り、大島に着いたが夜は大雨となった。大島での本陣は庄屋小野久左衛門、別宿は浪人小野善治郎の家であった。
6月22日、大雨、忠敬は暦局行の書状を書いた。後小雨となったので、伊能、下河辺、稲生、左助は大島の宿泊所下より逆測り、すなわち海を右に、人家を左に見て大島半周を測り、昨日の測り止めの所までを測量した。それから引き返して市島(一島)1周を測った。坂部組(坂部、柴山、文助、善八)は片島1周を測り、両組共7ツ(午後4時)後に大島の宿に帰って来た。
6月23日、大島を出発した伊能組(伊能、柴山、下河辺、稲生、佐助)は丸島、池ノ浦島(池島)周囲を測りそれより乗船して藻津の伊予土佐の国境に行き、そこから逆に藻津村、貝ケ崎、宇須々木村を経て加波崎で坂部組と合した。坂部組(坂部、青木、文助、善八)は21日の測り止めの小浦崎から測りはじめ、坂ノ下村を過ぎ、牛ノ背川を渡り、宿毛村堤を通り、錦村、小深浦、大深浦、椛村を経て加波崎で伊能組と合し、1同乗船して9ツ半(午後1時)後に宿毛村に着き、ここに土佐分の測量を完了したのであった。宿毛での本陣は大庄屋小野久治右衛門、別宿は郷士立田幸治郎の家であった。この夜の測量であろうか宿毛村浜(宿毛の大庄屋よりおよそ十町四十八間の所、今の中新田付近か)の緯度を32度57分と測定している。この夜、今まで案内役を務めてくれた各庄屋、甲浦、高知より日々手伝ってくれた手伝人足たちも暇乞に来た。
6月24日、お昼前に早目に昼食をし、無測量で一同かごに乗って藻津村まで行き、土佐最後の宿をここにとった。本陣は庄屋又三郎、別宿は同人の隠居宅であった。この夜の測量で藻津を北緯32度56分と測定している。この藻津まで同行して接待につとめた浦方下役宮崎竹助、横目岡本忠冶郎、同広田亀八、同窪田門八、今橋恵助、高橋武助、岡本鉄作、山改役池田利作、普請方下役森本喜之助、賄方三木茂四郎もこの夜暇乞いをした。
6月25日、藻津村を出発して国境まで行った。昨夜暇乞いをした人人はここまですべて見送りに来たが、国境には宇和島藩からも多くの役人が出むかえに来ていた。伊予に入った一行は脇本を経て深浦に着いた。
6月26日、夜8ツ半(午前3時)に伊能、坂部、柴山、青木、稲生、佐助、善八の7名が深浦より船に乗って卯来島(鵜来島)に行った。下河辺は地図作製のために残り、文助は病気のため行けなかった。5ツ(午前8時)後に卯来島に着き、伊能組(伊能、青木、稲生、佐助)は山を右にして測り、坂部組(坂部、柴山、善八)は山を左にして測って各々島を半周して出合い9ツ(正午)後に乗船し、7ツ(午後4時)頃に深浦に帰着した。
その後宇和島までは海岸の出入が多く1か月近くの日数がかかり、閏6月21日にやつと宇和島城下に着いたのである。
このように4月19日甲浦に入り、6月26日鵜来島を測り終るまで66日間、一行16名は土佐の海岸すべてを歩いて測量したのである。
この間土佐藩では接伴役として宮崎竹助、広井小左衛門、奥宮弁蔵を命じ、一行の送迎使役等のために使用された者は400人で、大送りと称する仰々しい儀式で、先遺役北岡十右衛門が之を宰領し、宛ら田舎の小大名の参勤交代の供廻りにも比すべき仰山なものであったという。この測量の結果は『大日本沿海実測録』に詳細に記されているが、その中で宿毛市関係分を抄出してみると次の通りである。
小尽浦榊浦田土
一里二十三町三十八間
小尽浦、32度53分半
五十間半
同七日島浜 至湊浦径測十九町五十四間半
一里十七町二十七間半
湊浦
一里三十四町五十九間
宿毛村浜 至宿毛村宿所汎測一十町四十八間
32度57分
一里一町五十六間半
同加波
十九町四間半 至加波崎八町四十三間
同西浜
三十二町一十四間
同藻津 32度56分
一里二十七町四間半 至国界九町五十二間半
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