宿毛市史【近世編-幕末と宿毛-宿毛湾の海防】

郷士、地下浪人、猟師の動員

享保海防令によると異国船が沖合に来るか港に入った場合には、幡多郡に居る郷士は、槍鉄砲その他の武具を持ってかけつけ、猟師の鉄砲も集めるよう指示している。この場合の集合場所は異国船が、
一、清水へ入る時は太岐、以布利、加久見、猿野
一、小満目に入る時は頭集、弘見
一、安満地に入る時は頭集、橘浦
一、橘浦に入る時は弘見、泊、芳の沢
一、宿毛に入る時は宿毛
一、柏島に入る時は天地、柏島
と指定している。当局と外国船との交渉期間その付近に待機し、決裂の非常に備えるためである。
ついで文化5年(1808)4月には、異国船が来た場合、地下浪人並びに猟師は、浦役人よりの通知がなくとも鉄砲と玉薬を持参してかけつけ、おだやかでない船を見たならば、御役人や分一役の指図によって打ち払ってもよいことが指示されている。(憲章簿海禦之部18)
これらの配置の場所及人員は弘化3年(1846)には次の通りである。
与津より下田までは小八木角馬が指揮し、足軽20人に、欠着かけつけ郷士、地下浪人46人を加える。集合地は佐賀。
下田より窪津までは幡多郡奉行が指揮し、足軽20人に、欠着郷士、地下浪人36人を加える。集合地は下田。
窪津より清水までは、津田与一郎が指揮をとり足軽20人と欠着郷士、地下浪人27人を加える。集合地は窪津。
清水より小満目までは幡多郡奉行が指揮をとり足軽20人、欠着郷士、地下浪人49人を加える。集合地は清水。
柏島より藻津までは宿毛領主山内太郎左衛門が指揮をとる。
沖の島は三浦八郎、三家一統が固める
となっている(憲章簿海禦之部60)
右の文書には宿毛の場合、郷士や地下浪人のことが記されてないが、実際には郷士や地下浪人たちも配置についたようである。宿毛領主の指揮下に入る欠着郷士、浪人は、磯の川、上の土居、横瀬、山田、芳奈、平田等磯の川以西の郷士たちであった。これを物語る文書が、中村市磯の川の能津正登志氏の家で発見されている。
   覚
一、柏島より藻津浦まで相守人数左の如し
 宗崎安之助、下村順之丞、田辺才太郎
 岩本谷平  文野利平太 立田寿助
 能津重次  吉本用八  浜田半五郎
 中山佐五郎 猪石千代次 立田藤左衛門
   丑年より年番之筈
    川村孫三郎 上岡半蔵 和田又市
    和田弥三郎           (能津家文書)
磯の川の地下浪人能津重次は文政2年(1819)に相続し、文政12年(1829)には備えの場所へかけつけ昼夜相詰めて褒詞をいただいている所からみると、右の文書にある丑年は文政12年(1829)のことかと思われる。この文書では欠着郷士たちの集合場所は明らかでないが、文政12年には柏島へ異国船が漂着しているので、柏島へ集合したと思われる。岩村有助(礫水)、浜田亀次郎、北川安右衛門より出した通達(嘉永6年か)によると、
「此以後異国船相見える旨相聞き候はば、各々の儀是より沙汰を相待たず、直に宿毛御土居へ欠着らるべく候」(憲章簿海禦之部99)とあるのでその後は宿毛土居すなわち伊賀家へ集合したのであろう。

異国船来航の節の固め場
異国船来航の節の固め場