宿毛市史【近世編-幕末と宿毛-宿毛湾の海防】
砲台築造
海岸に近寄ったり、入港したりする異国船を追払うためにはどうしても砲台が必要になってくる。これらの砲台場には大筒が備えつけられたのであるが、その状況は次の通りである。
憲章簿海禦之部によれば、文化5年(1808)には甲浦、津呂、浦戸、須崎、与津、下田、清水、柏島、宿毛に大筒が備えられており、文政11年(1828)には、伊田、伊佐、小満目、大津にも大筒が備えられた。
天保14年(1843)の異国船手当(高知藩兵制史料海防編上)によると、大筒の場所はずっと増え、幡多郡下では上川口、下田、布、以布利、窪津、伊佐、松尾、中ノ浜、清水(2か所)三崎、下川口、小才角、小満目、柏島、泊、大島、沖の島広瀬となっている。この場合砲台のことを大筒台と呼んでおり、まだ砲台と呼ぶ程大きなものではなかったようである。
天保3年(1832)の「異国船御手宛東西浦々御備御鉄砲」によると、沖の島に備えていた大筒は、200目玉唐金居鋳筒一挺、十匁玉筒一挺で、二百目玉は100個、(内50は鉛玉、50は鉄玉)十匁鉛玉100個、打薬八貫八百匁(一口二百二十匁)とある。
大島の大筒台は咸陽島の東の島におかれており弘化2年(1845)の古谷良材の写生図の高幡奇覧には大筒場と記入されている。
これらの大筒や大筒台は、とても異国船を撃退できるしろものではない。嘉永6年(1853)にペリーが浦賀に来航してから後は、急に海防の事がやかましくなり、各地にもう少し大形の砲台が構築されるようになった。幡多の各地にこれら新式大規模の砲台を構築した人は、中村の樋口真吉である。真吉は剣道は大石神影流の達人で、砲術は田所左右次に学ぴ更に高島秋帆や長州の砲術家有坂淳蔵、信濃の佐久間象山等にも学び、安政元年(1854)幡多郡奉行下役加役となり、幡多郡沿岸の防備を設計し、工事の監督にあたった人である、樋口真吉記録の「嘉永第七甲寅歳正月稿、南浜之隔、愚庵主人、土佐幡多郡砲台図編」にはその第1頁に「砲台図編、樋口武子文選、土佐幡多郡海岸砲床胸壁、安政元年奉命築之」とあり、次の砲台が記録されている。
-
宿毛鷺洲 | 長三拾六間、幅拾間(図解なし) |
橘浦中崎胸壁 | 長拾間、根置四間、高壱間、薬室高五尺、幅五尺、深七尺 |
柏島砲台 | 長弐拾五間、幅五間、高壱間、薬室壱ヶ所 |
沖島 | 長七間、幅四間 |
下川口胸壁 | 長拾七間、幅四間 |
三崎砲台 | 長三拾間、幅六間、高弐間 |
清水湊内三胸壁 | 各長拾五間、幅四間、高壱間(牧浜、渡浜、清水谷の3か所) |
中浜浦胸壁 | 長拾六間、幅四間 |
大浜浦胸壁 | 長拾間、幅三間 |
窪津 | 長八間、幅三間 |
下茅浦松原胸壁 | 束て長拾九間、幅弐間 |
布浦胸壁 | 長弐拾間、幅三間、高壱間 |
下田 | 砲床胸壁合テ根居拾弐間、幅四間、高弐間半、湟外胸壁壇道束テ幅根居弐間半、壁高一間、外囲長百間、砲床横長六拾間 |
上川口 | 一、長六間、 一、長弐拾間、幅四間 |
佐賀浦砲台 | 長三拾間、幅四間 |
| |
宿毛の沖新田に築かれた砲台が、真吉の記す宿毛鷺洲の砲台であろう。図解がないのは残念であるが、これよりもずっと小さい約2分の1の柏島砲台の図を参考に掲げておこう。
この宿毛砲台の跡は今でも「おだいば」と呼ばれており、安政元年の大地震の際の津波にもその砲台場の形はこわされず残っていたことが、その地震記録に出ている。片島の故加藤春馬翁の談によると、宿毛の大砲は、松の木をくりぬいて竹の輪を入れた木製の大砲であったという。
これらの砲術の稽古について次のような記録がある。
来月8日正日出より出張忽砲8丁拾6間与作池河原において打順
-
火 | 羽田左膳 |
火門 | 上村範蔵 |
矢 | 岩村有助 |
玉込 | 長山三吉 |
台尻差図 | 広瀬典膳 |
台尻 | 山田要六 |
玉持 | 池川六次郎 |
-
火 | 上村範蔵 |
火門 | 広瀬典膳 |
矢 | 岡本郷助 |
玉込 | 羽田左膳 |
台尻差図 | 吉良忠之進 |
台尻 | 岩村有助 |
玉持 | 長山三吉 |
-
火 | 吉良右内 |
火門 | 吉良忠之進 |
矢 | 上村範蔵 |
玉込 | 羽田左膳 |
台尻差図 | 長山三吉 |
台尻 | 池川六次郎 |
玉持 | 岡本郷助 |
右3発御軍備方仕入 |
右のように入れかわり立かわって砲術の稽古をしていたのである。
安政元年11月5日の地震の時は砲術の操練の最中であった。の地震記録に操練の模様が記されている。
一、 | 夜明揃を以松原田町にて民兵操練御領内村々民兵七十人足軽四十人御手人共之小頭弐十人中小姓歩行之足軽大将四人□□弐人都合百五十人、早鼓、軍貝並前後左右之将四色之色分幟を以指揮、小銃百挺大砲車台四挺、小頭共六人懸薬込等を以序破急之打方且二行進退之備打終日操練、 |
(浜田家文書、甲寅大地震御手許日記)
当時すでに百姓たちから募集した民兵の組織があり、この民兵や足軽を中心にして小銃や大砲の操練をしていたのである。松原田町というのは松原という所のたんぼというのであり、松原とは今の宿毛警察署裏の付近である。