宿毛市史【近世編-幕末と宿毛-宿毛湾の海防】

異国船の来航

江戸時代に幡多海岸へ異国船が漂着した事は度々あり、特に鎖国以後はその都度現場に駆け付けて警備にあたる等当時としては最も大きな出来事であったのである。諸種の記録をもとに幡多海岸への異国船の来航を記してみると次の通りである。
番号 年  月  日 事   項 資  料
(1) 慶長12年6月20日 小満目浦へ唐船漂着 兵制資料
(2) 慶長18か19年 清水へ唐船来航 南路志、新丞覚書
(3) 元和元年5月 清水へ唐船来航 南路志
(4) 元和2年6月 呂宋船清水浦へ漂着 異国船手当、南路志
(5) 寛永17年10月 琉球船佐賀浦へ着岸
(6) 宝永2年7月10日 琉球船清水浦へ入津 同、南路志
(7) 宝暦12年7月22日 琉球船大島へ漂着 同、南路志、新丞覚書、大島記
(8) 寛政7年5月 琉球船下田浦漂着 同、年代記
(9) 文化5年11月25日 異国船伊佐沖へ見ゆ
(10) 文化6年11月 異国船柏島浦へ 川村万蔵文書
(11) 文政12年冬 異国船柏島浦漂着 宮崎、川村、能津文書
(12) 安政元年5月 津呂沖へ夷船見ゆ 宮崎文書
(13) 安政3年5月 広東船越浦漂着 樋口、尾崎文書
(14) 慶応2年7月2日 英船安満地へ乗入  伊賀家文書
これらのうち宿毛と関係のあるものをぬき出してみると、
(1)慶長18、19年の清水浦漂着
この時中村からも役人が出かけたが宿毛からは龍谷様(初代領主可氏)が直接出かけている。乗組員は70名であったが、調査のため2か月も滞留させており、その間龍谷様は2人の唐人(内1人は通辞)を連れて宿毛に帰り助左衛門の家に2、3日滞留させ、度々御屋敷へ呼びよせて事情を聞いている。
清水ではこの唐船を留め置こうとして、材木で港口をふさぎ、船に綱をかけていたが、黒ん坊が綱を切り、大筒を放して出港したのであった。(紺屋新丞覚書及び南路志)

清水へ唐船来航(紺屋新丞覚書)
清水へ唐船来航(紺屋新丞覚書)

(2)宝永2年(1705)琉球船の清水漂着
この時も藩当局は、宿毛の領主山内蔵人(4代領主倫氏)を清水まで調査及びその対策につかわしている。

(3)宝暦12年(1762)琉球船の大島漂着
この時の記録は大島筆記に詳しい。それによると、この船は拾五端帆の借船という琉球の用船で潮平親雲シビラハイキン上主従10人、船頭高良主従41人計51人が乗組員であった。琉球で大風に会い帆桂は折れ、かぢも折れて柏島沖へ漂流してきたものである。柏島からは直ちに引舟を出し大藤島へ引いて行き、7月22日に大島の港へ入れ碇をおろさせたのである。
注進をうけた土佐藩では、奉行職を命ぜられて高知にいた宿毛7代領主山内源蔵氏篤に其の取り扱方を命じた。氏篤は7月28日に高知を出発して宿毛に帰りその処置をした。この琉球船は10月7日に帰ったが、その間調査団は琉球の国体、人物、風俗、年中行事、官位、朝服、地名、産物、言語、歌等を調査し『大島筆記』にのせている。
氏篤はこの事件の処理をすべて終り10月14日に高知へ帰った。

大島筆記
大島筆記

(4)文政12年(1829)の異国船柏島漂着
この時は磯の川の能津重次ほか磯の川以西の郷士、地下浪人たちも早速かけつけ宿毛領主の指揮下に入り、宿毛の侍達とともに現地に行って警備についている。「早速欠着かけつけもよりの備所へ昼夜相詰候」(能津文書)とあるが、警備した場所は明瞭でない。しかし、柏島へ異国船が入った場合は天地(安満地)か柏島が警備の場所となっているので、柏島へ出て警備に当ったとみてよいであろう。

(5)慶応2年英船安満地浦入港
慶応2年(1866)7月2日、黒塗の異国船1艦、 (長さ50間ばかり、帆柱3本、乗組員100人ばかり)が申の下刻(午後5時)に安満地浦に入港し、港の深浅を測量しはじめた。安満地浦の役人横田文五朗は地下役の中平新作、谷本為吾、安岡庄三を同伴して小舟に乗って英船に行き、本国等を尋ねたが言葉が通じない、そのうちに船長が出てきて別紙写のものをくれた。このことを直ちに宿毛に知らせたのである。宿毛ではこの知らせを3日の暁に受け取った。別紙には次のように記してあった。
  覚
 此艦は英国の船にしてセルベントという、船将をフロック氏と云う、此度英国海軍提督より命ぜられ塩見崎(潮岬)へ燈明台を建候、便利之場所を老中と談判中に候間、カシ本(串本)役人においては勿論、そのほかの人々もこの船将を大切に取扱い尽力して周旋せしめんことを望む
  英国軍艦プリンセスローヤルに於て
  西洋1866年6月
  即日本慶応2年7月朔日
     水師提督 シヨースキング
というものであった。また柏島の遠見番所からの注進も宿毛へ来た。
これらの注進をうけた宿毛では早速役手達が出勤し3日の朝早速次の人々を安満地浦に直けて出発させたのである。
「老役羽田左膳、仕置役 竹内万弥、同付役 宗武栄次郎、浜田豊蔵、田中茂三郎、中町徳之進、下横目安次、今助、手廻り以下筆次、幾馬、駒次、重次、竹八
  〆上下13人
鉄砲20挺ルに幕等用意候」(伊賀家日記慶応2年による)
竹内綱自叔伝によるとこの時の出動は
「翌4日余は老役羽田左膳と歩兵2小隊を率い漁船10余艘に乗じ安満地浦に出張す」とあって人数と日付にくいちがいがある。
現場に着いた宿毛よりの部隊の動きについて竹内綱自叔伝では次のように述べている。
「港内には未だ曾て見ざる長大なる大砲を据へ付たる尨大なる黒船碇泊し、船員は三々五々海浜を往来せり。羽田を始め隊長等は直に打払をなさんと強硬に主張せり。余は日く、この長大なる大砲に対し、小銃のみを以て打払をなすも、勝敗は知るべきのみ。余は黒船に到り彼の行動を観察すべし。余の帰るまでは打払は見合わすべしと。余はかく命じ置き、直ちに単身小船に乗り込みて黒船に到る。船上に外人の紳士らしき人あり、余を招くものの如し。余は直に船上に登る。紳士は余を船室に誘い相対話するも、言語もとより相通ぜず、紳士は和版英語箋と題する1冊を出して相互日英の単語を指点して、ようやく黒船は英国船にして海洋測量のため入港、明日出港することを推察するを得たり。」
この間の間答の内容は「伊賀家日記慶応2年」に次のように記されている。
「同4日
一、昨日安満地浦へ立越候役手共、異人と応接致候趣、紙面を以申越候事
 (本文応接書左ニ記)
一、問う、英船来る何の由ぞ。答、紀州カシ本にて認めし書翰の意趣の仕業をなし、其書を出す。
一、松平土佐守殿と云う書翰を出す其事由を問う。密事と云て手をふる。
一、高知、まみゆる、なす、なる、としばしば云う。察するに其意国主に目見できるや否との意ならんか。
一、さつま、うわじま、みにした。としばしば云う。此意両国は願望成就したと云う意ならんか。
一、出帆を問う。明暁高知の方へ行くの意を答う。
一、むつまじ、と云う詞にしばしば手品をしてうなづく。其意親睦の意か。」
この報告書は、いうまでもなく竹内綱が書いたものである。
竹内綱はこれらの調査中に洋酒を御馳走になり、これがもとで遂に切腹させられようとしたのであるが、このことについて竹内綱自叔伝で次のように述べている。
「此の応接の間、紳士はしきりに酒杯を余に供し、余は始めてセルイ、シヤンパン等の洋酒の美味に感じ、覚えず数杯を傾け大に酩酊せり。余は陸に帰り羽田隊長等に観察の状況を報じ、打払を制止し、無事に明朝の出港を見逃すべしと決せり。異国船は5日朝予定の通り無事出港し、余羽田と共に隊を引揚げ、6日夕刻宿毛に帰れり。然るに余の宿毛に帰るに先だち、安満地に於て余の打払いを制止したるに不平なる隊長等は、竹内は大切なる打払いの使命を果さざるのみならず、敵人と酒杯を献酬し、大酔して憚るなきは、実に大罪人なり。許すべからず、と密告せる者ありて、伊賀家重役に於ては、竹内を切腹の厳刑に処すべしましと一決し、余の宿毛に上陸するや、直ちに閉門蟄居を命ぜられ、旦夕に切腹の厳刑に処せられんとす。然るに15日に至り高知宿毛屋敷留守役より、去る10日英国の測量船須崎浦に入港、藩政府は之を好遇し、牛肉鶏卵等を贈与せりとの報あり。是に於て余は閉門蟄居を免除せられ、切腹の厳刑を免れたるは幸甚なりというべし。」
伊賀家日記によると、4日の条に、「昨日差立候役人初8ッ半頃帰足、今朝異船異条無く出帆之趣」とあるので、異国船が5日朝出航、竹内らは6日夕方帰ったとの竹内網自叙伝の日付は少し違うことになる。
英船安満地入港のことを弘見の安岡庄三が記したものが残っている。庄三は横田文五郎たちと英船に乗船した者の1人であるが、入港の模様から船内の様子、船員の服装、飼育している動物に至るまで詳細に記録しているが、はじめてガラス窓、ガラスのかがみ、寝台等を見て驚いた様子がよくわかる。その中に「犬1疋、毛黒赤く背高く太し、耳たれて太し、其の外かわりなし、猫1疋是は此方の猫も同じ。」とあるのも面白い。
とにかくこの事件が、宿毛の攘夷思想を変えさせた事は事実である。今までは上陸したならば打払えというのが定めである。これを実行しなかったばかりに、竹内綱は危うく切腹させられようとしたのである。しかしこの当時はすでに幕府は開港の方針を打ち出し、更に土佐藩では英船を厚遇しているのである。宿毛の重役たちがとまどったのも無理はない。7月18日には次のような質問書を藩に提出している。
一、領内へ異国船が来て薪水、食料等を乞う場合どうしたらよいか。
一、上陸したいという場合どうしたらよいか。許可を得ずに直ちに上陸した場合どのようにしたらよいか。
これに対して藩当局は、「なるべく上陸はことわり、しいて上陸を申し出て暴挙のない時は上陸させ薪水食料等を与えてもよい。」と返答が来ている。(伊賀家日記)
このようにして棲夷の姿勢は次第にくずれ、やがて明治の開港をむかえるのである。

英船安満地入港の注進 水師提督よりのメッセージ 宿毛兵士の出兵 竹内綱と英国船長との問答
英船
安満地入港の注進
水師提督より
のメッセージ
宿毛兵士の出兵 竹内綱と
英国船長との問答