宿毛市史【近世編-幕末と宿毛-幕末の宿毛の状況】

武市半平太と宿毛

武市半平太(瑞山)は、安政元年(1854)26才で高知に剣道の道場を開いたが、まもなく江戸に出て修業をするかたわら、諸国の志士達と交わって尊王攘夷の思想をますます固めたのであった。
瑞山は、桜田門外の変のあった万延元年(1860)の7月、32才の時、剣術修業のため門人島村外内、久松喜代馬、岡田以蔵の3名をつれ、九州を遊歴し、各地で試合をしているが、その門弟の1人岡田以蔵(後に人斬り以蔵といわれた)は、先に瑞山と別れて宿毛に来て、瑞山の事を岩村有助(礫水)等に紹介したのである。その時、以蔵はしばらく宿毛に留って、宿毛の家士たちに剣術の稽古をつけている。その後瑞山は九州よりの帰途宿毛に立寄り、数日間滞在して岩村通俊等多くの宿毛の士たちと接し、南海太郎朝尊の刀を購入している。これら以蔵や瑞山が宿毛へ来たことを記した文書をあげてみると、
寺石正路著『続土佐偉人伝』の岩村通俊の項に、「弱冠の頃、高知の剣客岡田以蔵宣振宿毛に来る。乃ち就て剣術を学ぶ、万延元年武市瑞山又宿毛に来る、通俊之を訪うて互に肝胆を吐露して一見旧の如く互に意気を相許す。」とあり、これは岩村通俊著『貫堂存稿』の記事よりとったものである。
『維新土佐勤王史』には、「これより先、瑞山に別れし岡田以蔵は、この年の秋一たぴ豊後の国に至りし後、帰途宿毛を経て瑞山のことを岩村有助等に紹介したれば、ここに於て土佐下士中の文武材幹のある者はあげてその血盟中に網羅しつくせるの観あり。」「瑞山は海岸を迂廻しつつ土佐の西端宿毛に入り、さらに幡多郡庁の所在地なる中村を経て、至る所に有志の剣客を訪い、高知新町に帰省せり。然るに瑞山が行李中に在リしものは『霊の真柱』一部と新に宿毛にて購ひたる南海太郎朝尊の新刀のみ。」
岩村通俊著『貫堂存稿』の瑞山筆の絵の説明の後に「これ武市先生の遺墨となす。先生少時画を徳弘董斎に学ぶ。帰途宿毛を過ぐ。数日留る。一見知を辱くす。別れに臨んで此の図を作り贈らる。」(原文は漢文)さらに、瑞山の下獄後この禍のひろがるのを恐れて往復文書をことごとく火にくべたので、今ではこの画だけが残っていると記している。この文によって宿毛での対面以後もかなり瑞山と文書が交換されていたことがわかる。
宿毛の林むつ氏の談に、「武市半平太が宿毛に来て、私の祖父の岡添荒次の家に居った。荒次たちは剣術を習った。岡添家に居る時、半平太は富士山の半分の絵をかいてくれた。なぜ半分の富士山かと家人が問うと、後の半分は今度来た時にかくと言ったという。その富士山の絵が岡添家にあって私も見たことがある。」
瑞山は絵をよく画き、上手であった。宿毛でも請われるままに絵を画いているのである。
宿毛の人達が岡田以蔵に剣術を学んだのには、次のような話も伝えられている。
「宿毛で常盤神社の奉納試合があったが、宿毛の侍達は中村の樋口真吉、甚内兄弟に、さんざん負け、これではいかないと思っていた時に岡田以蔵が来たので、稽古をつけてもらったのである。」(竹村照馬氏談)

武市瑞山筆
武市瑞山筆