宿毛市史【近世編-幕末と宿毛-幕末の宿毛の動向】

財政整理と大阪宿毛蔵屋敷

伊賀家の財政は極度に欠乏していた。宝永の地震と津浪で各地の堤防がほとんどこわされその被害は100年間続いたのであるが、更に安政の地震と津浪で大被害が出、その復旧作業も遅々として進まなかったためである。そのため家禄半知借上げと称して五十石以上は半額、其以下は等級に応じて借り上げる状況であった。その攘夷論が盛んとなり異国船打払いのための設備として砲台の建築、銃砲弾薬の購入等のため多くの資金を要したのであったが、どうしてもこれらの金が工面出来ない状態であった。
竹内綱は文久2年(1862)24才で目付役に抜てきされたが、先づ着手したのが財政の整理であった。当時樟脳が外国へ輸出されだしすこぶる高価であったのに着目した綱は、領内で樟脳の製造を開始した。楠は昔から伐採を禁止していたので領内の村落神社等いたる所に大樹があった。それを片っ端から伐リたおし樟脳を製造して売却したのである。その結果はすこぶる良好で1か年あまりの後には軍備に必要な資金は調達する事ができるまでになった。
綱が次に着手したのは地租の改正であった。地租は昔から米納であったが、毎年米の収穫期に各村に役人を出し、村役人と立会の上で収穫米を見積り、双方が一致しない時は一坪の稲を刈り取り、実収米を算出するもので、極めて手間がかかり農民は収穫の時期を失い、収穫高もそのために少なくなるのであった。この弊害を改正するため、3か年の収穫米を平均し、10か年の米価を平均したものを乗じて、その10分の4(それまでは10分の5)を金納で徴収するようにしたのであった。そのため地租の収入はほとんど倍に達し、それ以後家臣の半知借上げを廃止することが出来た。
慶応元年(1865)5月10日、竹内綱は仕置役を命ぜられた。綱は宿毛領内の物産の輸出を計画して、慶応2年(1866)1月18日、仕置役小頭立田強一郎(後の小野義真)物産方下役小野節吉(小野梓の実父)を伴って宿毛を出発、陸路を通って2月7日大阪着、長堀高橋町平野屋次助方に滞在した。大阪の商人に知人がないので、高知藩の蔵屋敷留守居役石川石之助、土佐物産売捌開始のために在阪中の開済館頭取武藤清の両氏に援助を依頼し、両氏の紹介で高知藩用達商炭屋彦五郎、辰見屋源助、銭屋文助3家の番頭と協議し、その周旋によって、宿毛の物産の売捌の引き受け、為替のこと、紙は紙問屋、材木は材木問屋等と夫々の問屋と約束を取りきめること、宿毛物産の輸送は船問屋淡路屋市郎平より五百五十石積帆前船1艘を買い入れ、宿毛丸と名付け、2艘は淡路屋の所有船で運送する約束もでき、更に蔵屋敷については辰見屋源助より道頓堀塩見橋北詰で三百余坪の土地、1棟の事務所と7棟の倉庫を買入れ、こうして、宿毛蔵屋敷を設置した。これらの蔵屋敷、輸送船買入れの資金は炭屋彦五郎より二千両を借入れて行なったのである。これらの準備が終ると小野節吉を蔵屋敷詰として残し、竹内、立田は4月20日宿毛丸で大阪発、5月3日に宿毛に着いた。
宿毛蔵屋敷の経営は順調にすすみ、明治2年には2,500トンの汽船大阪丸を買い入れ廻漕業を開始した。更に3艘を買入れ瀬戸内海の物資の廻漕運搬を行うようにしていた。このように蔵屋敷の事業が次第に発展すると、高知藩では家老の家柄で蔵屋敷の経営はなまいきであると言いだし、明治2年に、伊賀家に宿毛蔵屋敷の引き揚げを命じて来た。この時の蔵屋敷の負債は三万円余であった。屋敷、汽船を売払っても一万五千円に足らないほどであったが、綱は高知藩札が太政官札の半価である点に注目し、之を利用しようとし、高知へ帰って藩札三万円までを大阪蔵屋敷で太政官札に引換の許可を得、土佐で売る多くの貨物を買いこみ、宿毛に回漕して売りさばき、その代価として藩札を手に入れ、これを大阪で太政官札と引換え、三万余円の負債を償却し、汽船、蔵屋敷を売却し三万余円の剰余金を得て、これを伊賀家に差出したのであった。宿毛の重役達は、負債が償却出来ない時は竹内綱を切腹させて藩におわびさせるように決していたのであるが、藩札引換の成功であやうく再ぴ切腹をまぬがれたのであった。(『竹内綱自叙伝」より)

竹内家墓所
竹内家墓所