宿毛市史【近世編-幕末と宿毛-宿毛札】

宿毛札

幕末に宿毛で発行された宿毛札が、幡多地区のあちらこちらで、ぽつぼつ発見されている。しかし、まぽろしの宿毛札といわれるくらい、その数も少なくまだ30枚足らずであり、発行の理由、発行の場所、通用の方法、期間等不明の事ばかりである。今までこの宿毛札については記録も少なく、この意味からもまさに、まぼろしの宿毛札である。
この宿毛札は、縦15センチ、横4センチの長方形の和紙の厚紙で、青色と白色の2種類があり、金額は、銀十文目、銀五文目、銀一文目、八銭一文目などでこれらの金額を表の中央に大きく印刷し、その上には農神の図があり、下には御銀方と印刷している。金額の右には「弘化2年己癸」左には「宿毛通宝万歳」とあるので、発行は弘化2年(1845)で、正式には宿毛通宝といったものと思われる。
しかし、「弘化2年己癸」などは、この宿毛札のデザインで、その後発行されたすべての宿毛札にこのデザインが使われているので、弘化2年は宿毛札を最初に発行した年ということになる。
札の裏には墨で「安政己未」とか「慶応丁卯」とか書かれ、その下に真、尾、頼、講、寝、などの字が1字書かれている。この墨書の年号はその宿毛札を実際に通用させた年で、真、尾などの文字は今の紙幣番号に相当するその札個有の記号と考えてよいであろう。
なお裏面には「宿毛預」の黒い印がおされている。これはこの札が預り札として使用されたことを物語るものである。弘化4年(1847)の文書に表題には「宿毛札」、本文では「小預」とあり、安政2年(1855)の文書では「宿毛小預」(憲章簿穀泉之部巻3)とあるのをみても、宿毛札が、預り札として使用されたものであることがわかる。

宿毛通宝 宿毛通宝(表) 宿毛通宝(裏)
宿毛通宝 宿毛通宝(表) 宿毛通宝(裏)

土佐藩が藩札を出したのは、元禄16年(1703)であるが、5年を経た享永4年(1707)にはその通用を停止し、160余年を経た慶応2年に再度藩札を発行しているだけである。
しかし、文化、文政、天保頃には、商家の預り札とか手形とかいわれるものが発行されており、佐川の深尾氏も文政2年(1819)に佐川預り札を発行している。
これら預り札は、実際の取引の必要から自然に発生した為替手形、又は預金手形に類似のもので、かなり便利だったとみえて佐川預り札など佐川領内だけでなく、他の地方にも通用している。しかし、これらの預り札も天保12年(1841)には通用が禁止されているのである。
宿毛では、これらの預り札をまねて宿毛領内で通用させるために、宿毛札を発行したもので、その年次は弘化2年(1845)であり、御銀方が発行しているのである。
土佐造幣略史(土佐史談47、武市建山)では宿毛札について次のように述べている。
「宿毛の領主安東家もまた深尾家にならって佐川札同様の一種の宿毛札を発行して領内に便利を与へ、然もこれまた信用厚く、隣国伊予の宇和島領にまでも通用されたということである。種類発行高は知られないが、勿論藩末のことであろう。一書に表に「銀三拾文目」裏に「大阪宿毛蔵屋敷預」という預り札を発行したる事ありと見えている。或説にこれは宿毛の領主安東氏が大坂へ物産を販売のため輸送し、到着の際交付したるものにして、この預り札を以て幡多郡宿毛において正銭と引替した手形であるといわれているが、単に便利使用のために発行せしものであるから、土佐本藩においては絶えて一般に通用せざりしを以て、其の始末の如きは詳に知ることが出来ない。」
しかし、この文中にある大阪蔵屋敷は慶応2年(1866)に竹内綱が、立田強一郎、小野節吉等とともに創立したもので(竹内綱自叙伝)、「大阪蔵屋敷預」はこの頃、大阪での発行と思われるが、宿毛近辺で発見された宿毛札は安政6年と慶応3年の発行のものだけであり、これらはすべて「宿毛預」とあるので、これは当然宿毛で発行され、領主や物産方などの役所へ物産や品物を納入した際、この預り札が渡され、商人達はこれを他の場所で現金と替えたものであると考えられる。
宿毛札は信用を得て、宿毛領以外にも通用しだしたので、幡多郡奉行は2回にわたって領外での通用を禁止する布告を出している。
第1回目は発行した弘化2年(1845)から僅か2年目の弘化4年(1847)10月29日で、「銀銭預りは天保12丑年に差留ているのであるが、この頃、宿毛家中通用とある小預りが、幡多郡中で通用していると聞くが、以後はきっとさしとめるので、所持している者は来年の3月限りで引替をするようにせよ。もし。3月以降所持する者は処分をする。」というのである。(憲章簿、穀泉之部160)
この布告を出しても領外の通用が止まらなかったとみえて、安政2年(1855)には2回目の布告がなされている。
「宿毛小預り、右領内の外通用相成ざる事」という題で「宿毛小預りを宿毛領内以外では使用してはならない」と、弘化4年に布告を出し、「所持している者は翌年の3月までに引き替えるように仰せ付けておいたが、まだ宿毛小預りを使っている者もあるようだ。今後このような者があれぱ役人をつかわして差押え、罪につけるぞ。」というものである。(憲章簿穀泉之部109)
このように宿毛領外での使用は禁止されたが、領内での禁止のないところをみると、領内では相変わらず通用していたものであろう。
しかし、やがて維新の大変動があり、大阪蔵屋敷も、明治2年(1869)12月には完全に閉鎖され、それ以後は貨幣の大改革もあったので宿毛札の通用も次第になくなったものと考えてよいであろう。

宿毛札通用差留 宿毛領以外での宿毛札の通用禁止
宿毛札通用差留 宿毛領以外での
宿毛札の通用禁止