宿毛市史【近世編-地震と宿毛-宝永の地震】

宝永の地震

宝永4年(1707)10月4日の大地震は、俗に「亥の大変」といわれているもので、其の規模といい、被害といい、最大級のものである。
震源地が土佐沖であったため、土佐に大きな被害を与えているが、遠く本州にも被害を及ぼし、大阪では崩家14,015軒、死者15,263人が記録されている。
この地震の全容については『谷陵記』や『丁亥変記』に詳しく出ており、それによって当時の様子を詳しく知ることができる。
当日は天気がよく温い日であったので、ひとえ物を着ていた位であった。あまりにも温いので、不思議だと思っているうち、午前11時過ぎに大地震が起った。あまりの大地震であるため1歩も歩くことができず、山々の崩れる土煙が4方に立ちこめて闇夜めようになり、人々は恐しさにただ泣き叫ぶばかりであった。
そのうちに午後1時過ぎより大汐が押しよせてきた。すなわち津波である。海岸の人家はすべて流失し、流れ死ぬ者は数を知らない状況であった。翌5日の晩までに、大津波が12度もおしよせ、土佐国中が大被害をこうむったのである。
この時の奉行は、宿毛の山内蔵人、安芸の五藤外記、高知の山内主馬であったが、これらの奉行は郡奉行、浦奉行を指揮して、直ちに救助活動を開始した。藩王は参勤交代で出府の予定であったが、この大変のため出府を取り止め、その断わりのために山内主馬が使者として江戸へ向った。その時に被害の状況を報告したのであるが、その大要は次の通りである。
   宝永の地震の被害
一、流家11,170軒
一、潰家 4,863軒
一、破損家 1,742軒
一、死人 1,844人
一、過ち人(怪我人)   926人
一、流失牛馬   542疋
一、損田45,170石 (1石は1反歩)
一、流失橋   188か所
一、亡所の浦    63か所   半亡所  4か所
一、亡所の郷    42か所   半亡所  32か所

このような被害状況を幕府に説明して参勤を1か年間免ぜられている。(丁亥変記)
宿毛付近も随分大きな被害をうけたが、『谷陵記』によると、その状況は次の通りである。
   宿毛付近の被害
榊(栄喜)亡所 (亡所とは全滅という意)
福良亡所 山谷の家が少し残る。
小尽(小筑紫)亡所
亡所 民家と田が海中に没す。
伊与野汐は全部の水田に入る。家にも入ったが流れた家はない。
田ノ浦亡所
小浦亡所
内ノ浦亡所
外ノ内亡所
呼崎亡所
坂ノ下亡所 山腹の家が少し残る。
宿毛亡所 汐は和田の奥まで入る。はじめの地震でほとんどの家が倒れ、各所で火災が発生した。
  
 その時高汐(津波)がおしよせ土居(領主のやしき)の前に、それらの倒れた家屋は押しよせられただよっていたが、3番目の津波でこれらの家は全部沖へ流れ出てしまった。宿毛で残ったのは土居にある領主の家だけであった。
  
家が少し流された。田は海に没した。
貝塚亡所
大島亡所
深浦(小深浦)亡所
亡所
宇薄(宇須々木)亡所
藻津亡所

以上が宿毛市関係の海岸の被害状況であるがその他、幡多郡内の海岸の部落はほとんど流失して全滅しており、中村は家が3分の2倒れている。その他全般的に地盤の沈下もあって、潮水が入った水田の3分の1は潮が引いたが、3分の2は潮が引かず、水田は荒れてしまったのである。
大島の震災状況については、大島の庄屋、小野家々譜に
「宝永4亥年10月4日、大に地、震動し、山穿て水を漲し、川埋りて丘と成、浦中の漁屋悉く転倒す。逃れんとすれ共、眩暉て圧に打れ、或は頓絶せんとする者若干なり。係りし後は、高潮入りなるよしつぷやく所に、大津波打て島中の在家一所として残る方なし。昼夜11度打来る。中にも第3番の津波高くて、当浦社の石垣踏段三ッ残。」
とある、神社の石段は42段であるので、39段つかった事になる。いかに大きな津波であったかがわかる。
具塚浜田家蔵の古文書、「口上覚」には、「宝永4年の大変に付、右新田(千五百石余)悉く破損し、潮入本知内に望み、荒地と相成、過分の取務減を以て代々窮迫と相成候。」
とあり、百五十町歩の新田がすべて破損し、潮は本田の中にまで入り荒地となって年貢が入らなくなり、それ以後代々窮迫したと述べられている。
この新田千五百石余というのは、3代節氏の時に築造したもので海岸に堤防を築いて潮の入るのを止めて新田としたものである。その堤防が決潰して大半新田は海に没してしまい、その復旧には約100年の歳月を要し、その間宿毛領内では領主領民共に塗炭の苦しみをなめている。
この地震で決潰した新田の堤と、その復旧に要する見積人夫は次の通りである。

一、右初ニ相記候領内大変荒の新田場所等大要左ノ通
一、錦口堤 宿毛、錦両村
  長485間、人夫高80,057人 地高、175石
一、垣ケ瀬戸堤 大深浦村
  長39間、人夫高4,788人、地高85石
一、福良口堤 小尽村
  長796間、人夫高32,767人、地高200石
一、志沢口池浦堤 大深浦、糀両村
  長159間、人夫高14,873人、地高120石
一、片崎平五兵衛潮田堤 大島村
  長79間、人夫高14,543人、地高55石
一、仏崎より片島迄 大島村
  長330間、人夫高73,595人
一、中田堤 大島村
  長120間 人夫高23,988人
一、ハダカ島堤 大島村
  長56間、人夫高11,995人
  大島村3ヶ所の地高680石
  人夫総高256,607人
右入目米凡2,566石余    (浜田家文書口上覚)

となっており、復旧費用は1日1人米1升の割合で計算されている。これが当時の人夫1人役の賃金であろう。
新田の被害は右の通りであるが、潮は本田内にも入り、更に川の堤防の決潰により、洪水の被害を受けるようになった所も多く、米の収穫は少なくなってしまった。一番困ったのは百姓であるが、この百姓よりの年貢で宿毛領内の財政をきりまわしている宿毛領主の困窮もまた大きかったのである。
「享保5(1720)子年より文化4(1807)卯年までのうち、拝借米、御足米、御取替米、遣はされ候年数67年、米縮高凡七四、九四二石余 右高米、件の年数に割、1ヶ年に米一、一一八石余」(口上覚)とあり、享保5年から文化4年までの82年間に、67年間補助をうけ、その年平均は一、一一八石(四斗俵にすると二七九五俵)となっている。
この口上覚は、宿毛領の老役、羽田平角、石河勘太夫、弘田宇左衛門が、文化4年に、今までの補米、足米等を記して、今後の足米、補米を願い出た文書である。
それで、足米、補米はこの年以後も続くのであり、伊賀家々譜によると、それ以後の足米、補米が度々記録されており、宝永の地震がその後百年間も宿毛の財政に大支障をきたしていることがよくわかるのである。

宝永地震の記録 大島 神社の石段 宝永地震の被害
宝永地震の記録 大島神社の石段 宝永地震の被害