宿毛市史【近世編-地震と宿毛-嘉永の地震】

嘉永の地震

嘉永7年(1854)11月5日の大地震で、安政の地震、寅の大変ともいわれている。嘉永7年は甲寅の年であるため寅の大変といわれ、この年11月27日に改元されて、安政元年となったので、安政の地震ともいわれるのである。
この地震については貝塚浜田家に『甲寅大地震御手許日記』という公的な記録があり、他にも『嘉永7寅年11月5日地震筆記』などの記録があって、かなり詳しくその様子を知ることができる。『甲寅大地震御手許日記』をもとにして、その様子を述べてみることとする。
11月5日、その日は空もよく晴れ、寒気も厳しい朝であったが、昼からは温かく、よい天気であった。
宿毛の民兵70人、足軽40人、御手人共小頭20人等合わせて150人が松原(現宿毛警察署裏付近)のたんぽに、夜明けに集合して民兵の操練をした。終日小銃や大砲の打ち方のけいこをしてやっと操練が終り、夕日が片島の上に落ちようとした時分に、突然大地震が起り、歩くこともできず、田の畦の杭などにやっとつかまっていた程であった。この地震の後、日没までに2回、夜中に7、8回も地震があり、宿毛の町の家は、大半つぶれ、その上に火災が発生して、全く大変な騒動となってしまった。家が潰れる度に土煙があがり、人々は火事だと騒いだが、実際の火事は、2、3か所であった。しかし、津波が来るといって皆が騒ぎだしたので、火を消そうとする者もなく、宝物1つ取り出す者もなく、皆が一目散に山上へ逃げ上った。
そのうちに、大きな潮音と共に津波が押よせ、八反の大堤を通り越え、1丈程も水田の中に潮が入り、日の入頃までに宿毛の町の中にまで潮が来た。潮先は、北は鎌田の雁木より少し上へ、本町は天神社の上の横道肴屋の角、真丁は町詰まで来た。夜中にも2度まで津波が来たが、いずれも初回の分よりは低く、津波の害は宿毛では大したことはなかった。
しかし、この津波の騒ぎで、人々は山上に逃げており、出火をしても消す者もなかったので、火勢はいよいよ盛になり、本町、真丁、牛の瀬、沖須賀、仲須賀の大半は焼けてしまった。たまたま半潰で残った家も、人の住めるのはなかった。宿毛の町の北の方は石河(現林家)より立田(現大江石油店)、小野常次の蔵、米屋銀次、小野善平(現兵頭酒店の倉庫)御酒屋左平酒蔵、今升屋友蔵、清宝寺、大庄屋(現愛媛相互銀行)等より萩原にかけては、幸にして焼け残ることができた。
火災のあった新町の柳屋の蔵や、長山頭助の家など、沖須賀の民家1、2などとともに焼け残った家も少しはあった。
潮は牛の瀬川(松田川)におしよせ、河戸の堰の上へ、5、6尺も上り、大目屋松次の舟は、積荷のまま堰の上へ上り、また難なく下った位であった。
殿様たちは、和守の社へ避難した。若奥様たちは怪我をし、後谷へ避難し幕をはって野宿をした位であったから、町全体の人間が山上などで野宿をしたのはいうまでもない。
夜通し焼けた町の家も、七ッ時(午前4時)には焼けつくし、人々は全く夢見るここちでいた所、夜明け頃広瀬典膳(現小谷ガス店付近)の家より出火、今度は人々も消火にかけつけたが、竹内家(現森田家付近)時岡家(現検察庁)などが類焼しただけで、やっと五ッ時(午前8時)に鎮火した。
夜が明けてから、この地震の被害が更に大きかったことが判明した。度々の津波で、松田川筋の兜ばねから錦口までの間の堤防が、長短10か所も切れ、堤は3分の1も残らないほどこわれてしまっていた。与作池の堤も切れ、土居の堤も大破、二番井流も潰れたが、鷺洲にあった砲台場は、形は元のように見えていた。
林茂次平(林有造の養父)の母、三好弥右衛門の妻、斎原長五の娘2人が即死し、その他、市中郷中の死者は12、3人、怪我人は数えることができない位多かった。
侍の家では、羽田亀吾、広瀬彦助、市川愛三郎、稽古場、羽田左膳、斎原祐之丞、立田安衛、安東長屋、上村長屋などが潰れた。その他潰れなかった家もあるが、住居できるのは10軒位に過ぎなかった。
大島は4日の朝小地震で潮がさしたので注意していたから怪我人はなかったが、津波は神杜の石段7段まで上り、洞泉寺の障子端まで来た。潰家は極めて多く、流れた家は13、4軒であった。
錦村の堤、赤穂島の堤、志沢の升田屋新田の堤も切れてしまった。
小尽(小筑紫)は、津波で往来筋の家の半分過ぎは流失、小高い所にあった米屋安次右衛門の家には2階まで潮が来たが、怪我人はなかった。
殿様の屋敷である土居は、書院が大破で南へ傾き、屋根廻りが大破、廊下半潰、大門も大破、その他いたんだ所も多くあったが、倒れた建物はなかった。
和田、二宮は潰家もなく、被害は少なかったので、宿毛の人々はこの方面に行って宿をかしてもらった。
6日も何回か小地震があり、津波も来たが、町の入口位までで大したことはなかった。
7日の昼過ぎ、かなり大きな地震があり、小地震は何回もあった。人々は和守神社の付近に仮小屋を建てて夜を過すこととし、殿様はそれらの人々に焚出しを行った。夜中にも何回かの小地震があり、津波も来たので、人々は安心して眠ることはできなかった。
8日、殿様の家でも山上に仮小屋を造って生活することとなった。この日も数回余震があった。9日も余震が夜中に3回あった。13日も夜中に2、3度余震、14日も2度の余震があった。15日には大島では八朔潮(旧8月1日の潮)位の大きさの潮位となり、朝夕2回の潮さしとなってやっと平常に近くなった。(以上すべて『甲寅大地震御手許日記』による)
この地震は、宝永の地震に比べると、ずっと規模も小さく、その被害も少なかったが、それでも右にあげたような大被害を与え、宝永の地震後の復旧工事が、ようやく完成されかけた時点での、再度の地震であったので、宿毛の人々に与えた心理的な被害は、更に大きかったものと考えられる。
宝永の地震、嘉永の地震、昭和21年の南海地震の津波を比較してみると下のようになる。
吉良家に保存されている『嘉永7寅年11月5日地震筆記』によると
一、丑ノ瀬、新丁、新町残らず焼失
 但右新丁は当時諸奉公人住居、変后廓中御取分とりわけニ成ル
 本町南ケ輪がわ、酒屋小野屋熊之助宅より下、升田屋寅蔵宅迄、北ケ輪がわ、町庄屋兼次宅より下、小野常次宅辺迄焼失
とある。この地震前は新丁(真丁)は侍の屋敷町であり、本町と水道町が商人の町であった。地震後これを入れかえて、真丁を商人の町とし、本町と水道町を侍の町としたのである。
小野梓の父節吉は、はじめ常次といって本町の北側(現四国電力付近)で薬屋を営んでいたのであるが、この常次の記録が前記2つの地震記録の中にあるので再び出してみると。
「(本町)北ケ輪がわ町庄屋兼次宅より下、小野常次宅辺迄焼失」(地震筆記)
「北手は石河より御趣向方立田、小野常次蔵、米屋銀次、小野善平、御酒屋左平酒蔵、今升屋友蔵、清宝寺、大庄屋等より萩原へかけて焼残り候事」(甲寅大地震御手許日記)
この文書で小野常次の家は本町の北側にあって家は焼け、蔵が焼け残ったことがわかる。小野梓はこの家で生れ、3才の時この地震にあったのであるが、梓が少年の頃あまり勉学に精を出さなかったのは、この地震の時頭を打ったのが原因ではなかろうか、といわれた位である。
この梓の生家、常次宅も地震後真丁に移りやはり薬屋を営んだのである。
常次の家の西隣、米屋銀次の家は現稲田氏の所で、これも地震後真丁に移って米屋を営業し、その子孫が米屋旅館の西村氏である。ここの先祖書に「土州幡郡宿毛本町住西村姓米屋銀次」とある。
小野善平はその西隣、現兵頭酒店の倉庫の所に居たと思われるが地震後同じように真丁に移っている、後年、小野梓が士族をきらい、平民になるために養子に行ったのはこの善平の家である。
このように本町と水道町の商人達は地震後真丁に移され、それから真丁の商店街がはじまったのである。
真丁に住んでいた侍の加河氏は、地震後水道町に移され、明治以後元の真丁に移って、現在に至っている。

各地震と津波の高さ
各地震と津波の高さ

嘉永地震の日記 嘉永地震筆記 小野梓生誕地
嘉永地震の日記 嘉永地震筆記 小野梓生誕地