宿毛市史【近世編-近世の沖の島-三浦氏】

三浦氏

中世に村君として、沖の島弘瀬の領主であった三浦氏は、長宗我部時代には浦庄屋すなわち刀祢となって、そのまま弘瀬浦の支配をゆだねられていたが、山内一豊入国後は浦役、水主役のみを任命された。
弘瀬の三浦家には、これらを物語る近世初期の古文書が多く残っている
  其島浦役水主役前々の如く申し付くべく其外諸役赦面せしめ候間其意成る可き者也
      慶長八年十月廿五日
            一豊
 沖島三浦助左衛門殿
その他慶長12年(1607)2代忠義の後見役の康豊の状には、
  当島浦役水主等の儀前々の如く其方申し付くべく
とあり、元和9年(1623)2代忠義の状には、
  当島代官浦役水主等の儀、前々の如く其方申し付くべく
となっている。
三浦家は山内家直属の侍として沖の島を領しその上庄屋も兼ねていたが、安永2年(1773)には、山岡家が庄屋となり、幕末まで続いている。
しかし、天保14年(1843)の『沖島の記』によると、年賀の挨拶に、地下中の者が三浦家に行っている事などから考えても、弘瀬では三浦家が、相当の権力を持っていたことがわかる。
伊予領の母島では、承応元年(1652)の庄屋三浦馬之助の文書に
一、当島にて魚分け口、3ヶ1は庄屋取り前、3ヶ2は地下中へ分け取る事
とあり、宗見証文の「村君役敷鰹網中の魚いかほど候ても三分一也」と全く同じで、村君が廃止されて庄屋となっても、庄屋の取り分は村君の時と同じであったのである。

一豊書状 三浦氏系図 康豊書状
一豊書状 三浦氏系図 康豊書状