宿毛市史【近世編-近世の沖の島-宇和島藩の遠流地】

宇和島藩の遠流地

鵜来島と伊予領沖の島は、字和島藩の流罪の地でもあったのである。
宇和島藩では、鵜来島、沖の島を遠流の地、日振島、戸島を近流の地と定め、重罪人は遠流の地、鵜来島、沖の島へ流したのであった。
これらの罪人を流すときには、「不届至極の者に付き、死罪にも行なわれるべき所、御慈悲一等を減じ、沖の島へ遠島申し付け候」(穂積重遠『法窓夜話』)というように、恩着せがましく罪状を読み聞かせて流したものである。
流された人達は、島扶持をもらって、食べるのにはこまらなかったようであるが、庄屋の下人になると、庄屋に食べさせてもらい、島扶持はなくなったという。
これらの罪人が、島で不行跡なことをすると、庄屋からの申し出によって、手鎖をかけられたり、罪の趣によっては額に焼印をおされたり、領分を追払われることもあった。また、島抜けをした場合は脱牢と同じで、捕まれぱ、直ちに死罪になったのである。(山本寛巳「宇和島藩刑法史の一考察」)
沖の島には、これら流人の記録が、わずかではあるが残されている。今それをあげてみると、
「善福寺、この寺御庄殿御一門母島浦へ流人にて則、善福寺に於て御出家候之趣」(沢近文書)
「一、入百姓熊之助卯来島へ流罪之内、御長さ八寸斗の地蔵一体、同島流罪の源吾と申すものよりもらい請け所持仕候」(沢近文書)
「宇和島城下よりの遠島人伊藤何某伊木何某(『沖島の記』)
「沖の島流人佐平治心得宜敷趣に付、右島人百姓事」(兵頭賢一、「昔の島流し」)
「伊方浦農民騒動(文政13年)の主謀者達の処置について、主謀者市右衛門は斬罪となったが、森蔵は鵜来島へ、梅蔵、佐吉、金十郎の3名は沖の島へ遠流、甚之允他2名は、日振、戸島へ近流となっており、残りの9名の者が所替となっている」(宇和島藩文政13年記録及ぴ日記より抜粋)
流人の例(増補御年譜微考、宇藩仕置帳、大野文書等による)
宝暦 3年 6月25日三浦庄蔵勘兵衛(沖の島)
同   3年 9月25日浅井孫左衛門(卯来島)
同   6年11月11日串浦新右衛門(沖の島)
延宝 8年11月 2日中野伊右衛門(卯来島)
文政10年12月19日伊藤孫兵衛(沖の島)
文政10年12月 9日百姓熊治(卯来島)
同  11年 6月17日城下等覚寺僧元助(卯来島)
同  13年 6月10日森蔵(卯来島)
同  (佐?)吉(沖の島)
同  金十郎(沖の島)
    (沖本白水『とさ・おきのしま』)
流人の記録は以上の通りであるが、これらの流人の多くは政治犯であったような気がする。記録に残っている流人の大半は有姓の武士階級であり、無姓の百姓では、伊方の百姓一揆の首謀者達が流されているのである。
遠流地といえぱ、土佐全体が古代や中世の遠流地で、数多くの中央の政治家や貴族が、また幡多には尊良親王や土御門上皇までが流されているのである。土佐藩でも「渡川限り西」いう流罪があって、多くの有名人が流されている。中浜で死んだ歌人の今村楽、具同に流された刀鍛治の紫虹子寿秀、入田に流された堺妙国寺事件の生き残り9名などはその例である。
沖の島、鵜来島の場合も藩の所属こそ違うが同じような事であったのではなかろうか。