宿毛市史【近世編-宿毛の侍-伊賀氏の家臣】

伊賀氏の家臣

山内一豊の家来で可氏の与力となった者
山内一豊は可氏を宿毛に配するにあたって自分の家来を可氏につけて与力とした。その知行及ぴ人名は次の通りである。
   宿毛与力知行之覚
一、三百石太田清左衛門
一、百石同  半三郎
一、弐百石藤好三郎左衛門
一、弐百石福田勝太郎
一、百五拾石竹本六兵衛
一、弐百石蒲生源次
一、百石前野角左衛門
一、六百石広瀬惣兵衛
一、四百五拾石沢田忠助
一、百石塙久左衛門
一、千石祖父江次郎兵衛
   合参千四百石
 右全可領地者也
 慶長6年8月19日 一豊 (伊賀家文書)

この他一豊の墨付はないが次の者も一豊の命令で宿毛に配されている。
三百石羽田久五郎平田、猿野で
三百一石九斗|-松尾太兵衛猿野、山田で
|安東権右衛門
|大橋三太夫
|-今1人名を失念
合 六百一石九斗(伊賀家文書、宗伝様御判紙無御座与力之覚)慶長6年8月19日

これら一豊の家来であって可氏の与力となった者の中で、広瀬、安東、藤好、福田、羽田等は後世まで宿毛に居住しているが、太田、竹本、蒲生、前野、沢田、塙、大橋などはすぐ宿毛を雑れたとみえ、その後の与力の中にその姓を見出すことができない。


初代可氏前後に召しかかえた与力
郷氏、可氏、定氏と3代にわたって、美濃であるいは掛川で、更に宿毛で召しかかえた者が与力として宿毛の上士となっている。これらの与力は後には騎馬と混同し更に騎馬と呼ぱれるようになるのであるが、この時代に召しかかえられた与力の子孫が代々宿毛の重臣となっておる。
なお、宿毛で召しかかえた者の中には長宗我部遺臣も多く含まれているのも1つの特色である。
(1)安東郷氏(可氏の父)が美濃で召しかかえた者
  井上弥左衛門
(2)可氏が美濃で召しかかえた者
  玉田惣右衛門
(3)可氏が若狭国で召しかかえた者
  時岡伝水
(4)可氏が掛川で召しかかえた者
  田付弥右衛門、竹永善左衛門
(5)可氏が宿毛で召しかかえた者
  臼井三郎兵衛    石川勘之丞     近藤甚右衛門
  伊部清右衛門    石原権兵衛     山田久右衛門
  横山五郎右衛門  竹内甚兵衛     岡添左馬進
  浜田休半       池内五郎兵衛   小畑宗津
(6)定氏(2代領主)が宿毛で召しかかえた者
  斎原九郎左衛門、 大谷孫六
    (伊賀家文書、与力之者之先祖書出より)

与力の者先祖書出
与力の者先祖書出

正徳年中の与力騎馬
 与力と騎馬を一緒に書いているので区別がつかない。後には与力という名は消えてすべて騎馬となるのであるが、この与力と騎馬が宿毛の上士で知行をもらっている。

知行三百石 老役 広瀬次郎兵衛
 百五拾石   臼井三郎兵衛
 弐百石   安東半兵衛
 弐百石   石河内右衛門
 百五拾石 老役 田付彦右衛門
 百石      時岡左五右衛門
 百三拾石 )  伊部喜兵衛
新田六拾五石
知行百石   臼井平左衛門
 百弐拾石 近習頭若役 近藤甚左衛門
 五拾石   横山小平太
 四拾石 仕置 竹内甚兵衛
 四拾石   玉田惣三郎
 弐拾石 ) 石原権左衛門
新田五拾石
知行拾石 )   蔵方 岡添猪兵衛
新田三拾石
知行弐拾石 )   横目 浜田弥五左衛門
新田三拾石
知行拾石 )   仕置 池内甚五兵衛
新田五拾石
新田三拾石   斎原太左衛門
 三拾石 浦方 浜田次太夫
 三拾石   黒萩勧右衛門
 三拾石 仕置 市原次兵衛
 三拾石   竹場□之丞
 三拾石 武具方納戸方 酒井平太夫
 三拾石 勘定方地方 斎原又五郎
無役騎馬    時岡伝九郎
   〆24人 
騎馬と中小姓の間 2人(以下人名省略)
中小姓 15人
中小姓と若党の間 2人
歩行 39人
歩行 手明の間 1人
手明 22人
追廻し役 55人
養育扶持取軽重 30人斗
水主 41人
右ノ外出家中并居屋敷迄遣ス水主抱え諸職人等は不記

となっている。これらの家格にともなって役職があるのであるが、正保年中では次の通りである。
与力騎馬老役、近習頭、若役、仕置、蔵方、横目、浦方、武具方、納戸方、勘定方、地方
中 小 姓代官頭取、横目、納戸、祐筆、柏島詰、普請方、医師、仕置下役、銀方頭取
歩   行茶道、賄方替合、錠前替合、料理方替合、宿毛蔵方下役、大島分一舟手方、地方中見、作事方、老方留書、仕置方留書、普請方小頭、高知銀方下役
手   明錦口番人、下横目、普請方下役、鷹匠、手廻り道具持、草履取、馬取、高知門番、賄方下役替合、間ノ戸下役、宿毛門番、舘方下遣会前番(伊賀家文書、正保年中与力騎馬より)
正保年中の与力騎馬
正保年中の与力騎馬


寛文9年3代節氏時代の与力
節氏時代の寛文9年(1669)の与力は次の通りであって、正保年中の氏名と同じものがかなりある。時代があまりちがわないからである。
安東縫殿、広瀬次郎兵衛、安東半兵衛、藤好作左衛門、福田少太夫、臼井次左衛門、臼井金三郎、石川弥五内、時岡伝丞、時岡孫助、田付彦右衛門、田付伊左衛門、近藤甚右衛門、伊部所右衛門、石原八郎右衛門、石原半兵衛、井上長兵衛、山田権右衛門、横山新左衛門、横山五郎右衛門、竹永次郎左衛門、竹内清丞、玉田九右衛門、岡添伊太夫、浜田吉左衛門、浜田久兵衛、浜田金平、池内甚五兵衛、斎原九郎左衛門、小畑祐菴、大谷孫六、以上31名である。(伊賀家文書、与力之者之先祖書出より)


元禄13年4代倫氏時代の与力
元禄13年(1700)4代倫氏時代の与力は、知行千石、新田八十石の安東縫殿(節氏の弟)、知行三百石の広瀬次郎兵衛など26人である。知行高、人名ともに判明しているがここでは省略して資料編にまわしたい。
この頃までの与力騎馬の中には、後世の伊賀家の重臣である石河、羽田、鎌田、吉良、林などの姓が見えない。これらの姓は後に革姓されたものであるので、当初は革姓前の姓が記されているからである。後世に革姓した主な姓を記してみると次の通りである。
 羽田→臼井→羽田    田付→鎌田    石川→石河
 池内→吉良    時岡→林    玉田→畠山
 小畑→日野    斎原→大江
などである。広瀬、浜田、竹内、大谷、石原など革姓されずそのまま伝わっている姓もある。
伊賀家代々の重臣どなった家柄は、ほとんどが初代可氏頃からの家臣であり、それがそのまま明治維新頃まで伝わっているのである。


10代氏固時代の崎馬
文化8年(1811)から文政元年(1818)の間の宿毛の騎馬として、三百石広瀬惣兵衛、二百石安東喜間太、二百石羽田覚助、二百石石河三左衛門、百五十石鎌田助左衛門、百二十石時岡伝左衛門、百四十石羽田平左衛門(以下省略)など37名の騎馬がある。岩村有助も30石で騎馬になっている(土佐国諸家中控帳、上岡正五郎蔵)


11代氏理時代の家士
天保9年(1838)3月の伊賀家、家臣の名簿には家格とその人名がすぺて出ているが、人名はすべて省略して計だけを出してみる。
騎馬60人
間の格14人
中邑従(中小姓)33人
歩行35人
手明10人
手職人16人
       (徒目付林包徳文書より)
となっている。これらは親子2人共人数の中に入っている者が多いので、実際の家の数はこれより少なかったことになる。手職人の中には御手大工、御手鍛治、御舟大工頭、御舟大工、御手左官などがある。


家格と俸禄
安政6年(1859)宿毛の仕置役であった広瀬正度の『掌裡要録』などによると安政頃の家格と俸禄は次のようである。
宿毛領主藩主の家老で、藩の奉行職(執政)となった。本知六千八百石、新田千五百石。
与力知行千石以下、本藩の中老格または馬廻格で、宿毛領主の与力として置かれた。後には騎馬となる。
騎馬知行三百石以下三十石まで、後には与力も騎馬の中に入る。士分として老役、老助役、側用役、伝役、仕置役、目付役、奥役、留守居役、付頭取、側医、御預郷士支配、近習目付、代官などの要職についた。
間の格知行二十九石以下、4人扶持。騎馬と中小姓の間で騎馬格であったが、明治元年には新しく騎馬に入れられた。

(中小姓)
知行二十九石以下3人扶持。中従は間の格と共に騎馬格として、勘定頭、膳番、勘辮方、納戸方、台所目付、徒目付、近習、祐筆、茶道、側医などの役職の他、普請方、作事方、作配方、免方、分一役、蔵役、知限方、物産方、先遣などの諸役についた。
郷士30家、領地九石以上。本藩からの預りで準士分として取り扱った。
歩行かち2人扶持、準士格として供廻り、山番、守関、下横目などを勤めた。明治元年には新騎馬格になった。
手明1人半扶持、のち若党と呼ぱれたもので、軍団編成の場合は、足軽大将の配下に属し民兵の小頭となった。
手廻1人半扶持、後に足軽といわれた。
御手職人3人扶持以下、領王召抱えの大工、鍛治、左官など。
定小者中間とよぱれたもので、その中には六尺、草履取、飛脚などがあった。
   なお歩行以下の者には扶持のほかに五石から一石五斗までの切米または補米があった。
   幕末の伊賀氏家臣名薄(浜田家文書)によると家格は次のように分類されている。
騎馬35人(岩村有助、上村範蔵、浜田亀次郎など)
騎馬並11人(本山省吾、立田強一郎、上村修蔵、酒井三治など)
13人(林茂次平、押川常之進、中村進一郎など)
23人
歩行35人
若党21人
小者13人
この他に幕末には児従(小小姓)もおいていた。
伊賀家の『慶応4年辰年日記』によれば、2月29日、戊辰の役に当り手明を若党、手廻を足軽と改称し、8月には茶道と児従の10家を騎馬格とし、他の児従を歩行にした。9月13日には間の格を新騎馬に中従を騎馬格とし、歩行を新騎馬格に昇格した。但し勤事扱方は従前の通りとあり、9月20日には「騎馬並を騎馬1列に申付候」とある。
これらの新旧の家格を表にすれば次の通りとなる。

新旧の家格の表
新旧の家格の表

 幕末の伊賀家の役目意並に人名は次のようであった。
御老役吉良右内
助役石河右膳
御蔵役竹内 綱  小野義真
下役勘定頭竹葉彦丞  島崎儀蔵
大目附岩村通俊
下役御徒目附宗武延年
横目生田磯之丞、横山安次  宮尾造作  岡上只吉  その他
御納戸役近蔵儀内
御側役鎌田幾衛、大江馬次郎
御奥役上村範蔵
御免方山本里之丞  山本節馬
御近侍林有造、権太執中
御賄方飯田悦平、柴岡来平
御用方田中茂三郎
御逢番桑田慶蔵
附属
 御手大工4人
御用商人
  呉服雑貨商3人
  御肴屋2人
御菜園所1人
御料理人中山信平
御道具持武山筆次、萩野筒次郎
御草履取吉松要吉、横山和吉、桑田勘平
(宿毛尋常高等小学校郷土調査)
手明を若党と改称 小姓を新騎馬などと改称
手明を若党と改称 小姓を新騎馬などと改称


明治元年の家士
伊賀家の日記、明治元年12月7日には次の通り家来全員の氏名、知行、補米等が載せられている。最後の家士名簿であり現在とも1番関連が深いので、その全容を記載する。
   帖面写左ニ記之
騎馬
一、知行百八十石補米七石四斗九升四合羽田左膳
一、二百二十石三石三斗四升三合石河右膳
一、百三十五石十三石四斗七升九合八勺鎌田彦治
一、九十石二石林 堅三郎
一、九十石九石八斗六升四合五勺羽田亀吾
一、百三十石近藤義内
一、十石二石横山五郎右衛門
一、五十石二石玉田富衛
一、百石十二石四斗九升七合五勺山田権右衛門
一、六十石時岡弥三郎
一、七十石役知三十石二石吉良右内
一、四十石二石斎原九郎左衛門
一、三十五石二石浜田亀次郎
一、三十石三石黒萩新兵衛
一、三十石三石浜田喜蔵
一、四十石二石斎原覚之進
一、百十石二石弘田馬蔵
一、五十五石二石弘田鈔作
一、四十五石二石岩村有助
一、三十石三石近藤範一
一、三十石三石斎原祐之進
一、五十石二石北川十郎
一、三十石三石岡添斧三郎
一、三十石三石上村範蔵
一、四十石二石日野次郎
一、三十石三石広瀬彦助
一、三十石二石岡田駿吉
一、三十五石一石石原権左衛門
一、三十石一石加藤 宇八
一、三十石羽田馬三郎
一、三十四石二石竹内庄右衛門
一、三十石一石広瀬 勇
一、三十石一石石河莞爾
一、三十石三石近藤鎌次郎
一、三十石時岡駒次郎
一、三十石宗武竹助
一、三十石桑原九郎
一、三十石池田春丈
一、三十石岡添祐四郎
一、三十石本山省吾
一、三十石市川愛三郎
一、三十石立田強一郎
一、三十石宗武栄次郎
一、三十石上村修蔵
一、三十石酒井三治
一、三十石中村進一郎
一、三十石林茂次平
一、三十石山下順
一、三十石浜田広作
一、三十石羽田文友
一、三十石田淵栄馬
一、三十石吉良忠之進
一、三十石田付半兵衛
一、三十石斎原長白
一、三十石押川常之進
一、三十石酒井三野右衛門
一、三十石酒井明爾
一、三十石石原豊次郎
一、三十石松本加治馬
 〆五十九人

騎馬格
一、二人扶持切米四石四斗倉田恒平
一、三石四斗斎原順吉
一、三石四斗近藤三英
一、四石四斗太田堅次郎
一、四石四斗黒川醇平
一、三石三斗池川六次郎
一、二石五斗山本林茶
一、三石五斗所谷猪久丞
一、二石八斗竹葉貫一郎
一、四石島崎儀蔵
一、三石渡辺仁右衛門
一、二石五斗立田熊吾
一、二石五斗岡本孫三郎
一、二石一斗浜田務左衛門
一、二石五斗酒井有慶
一、二石五斗吉松又八
一、二石五斗中山槇丞
一、半人扶持二石八斗徳田鷹猪
一、二人扶持三石長山順助
一、四石三好元吉
一、三石九斗高津三郎
一、三石六斗浜田養蔵
一、三石三斗田村京蔵
一、一人半扶持二石一斗小島恵右衛門
一、二人扶持三石九斗山本里之丞
一、二石五斗柴岡来平
一、二石六斗美濃部弁吉
一、二石二斗森沢逸蔵
一、二石五斗飯田悦平
一、三石六斗下村儀三郎
一、三石四斗山本節馬
一、一人半扶持二石八斗野村勘之進
一、二石九斗栗原寅吉
一、二石六斗中山信平
一、二石七斗加河運平
一、二石二斗吉松礼助
一、二人扶持二石二斗田中仁平
一、一人半扶持二石六斗中田亀之助
一、二石六斗中城栄助
一、桑田弥三右衛門
一、斎原嘉右衛門
一、二人扶持三石五斗和田幸四郎
一、一人半扶持二石八斗竹村丹吾
一、二石六斗林助右衛門
一、二石三斗林助三郎
一、二石三斗黒萩甚内
一、二人扶持二石二斗中町丑蔵
一、一人半扶持二石松田善助
一、二人扶持三石小野実之助
一、一人半扶持二石六斗井上善六
一、二人扶持二石三斗長山佐一郎
一、二石四斗中町源之丞
一、二石一斗生田磯丞
一、二石六斗岡上保吉
一、山本槇蔵
一、小野修一郎
一、北岡藤吾
一、岡上雄次郎
一、二石六斗山本久三郎
一、二石一斗横山安次
一、一人半扶持二石一斗中田九郎丞
 〆六十一人

若党
一、一人半扶持切米二石三斗村島源三郎
一、田村新八
一、藤田清平
一、一人半扶持一石九斗倉田猪三郎
一、二石三斗宮尾直吉
一、一石九斗和井千代吉
一、二石三斗川島直右衛門
一、一石九斗黒岩仲右衛門
一、高石銀右衛門
一、一人半扶持一石七斗中町三右衛門
一、一石九斗加藤良平
一、秋沢円蔵
一、一人半扶持一石九斗宮尾忠三郎
一、宮川源吉
一、秋本臺七
 〆十五人

足軽
一、一人半扶持切米二石池川森作
一、島岡伝次
一、川島利吉
一、小野三蔵
一、西村菊助
一、長尾貞平
一、一人半扶持所谷与蔵
一、田村弥助
一、栗原徳馬
一、田村仙次郎
一、萩野常次
一、竹田精蔵
一、武山筆次
一、中村覚次
一、今岡郷助
一、蕨岡清次
一、横山和吉
一、島村駒次
一、萩野嘉吉
一、宮尾清八
一、萩野幸助
一、吉松要吉
一、長沢幾馬
一、田村邑吉
一、一人半扶持長尾左右吉
一、谷 定吉
一、吉松俊次
一、黒岩達次
一、西尾純蔵
一、桑田勘助
一、長岡勝次
一、桑田只八
一、竹村五郎
一、中町兼吾
一、沖 大次
一、岡崎修吉
一、坂本喜八
一、平井浦次
一、原 丈次
一、島岡逸馬
一、岡崎栄三郎
一、宮尾喜蔵
一、一人半扶持津野嘉助
一、柏原達吾
一、萩野鎌吉
 〆四十五人

小者
一、一人半扶持切米一石六斗林平
一、安平
一、常右衛門
一、広右衛門
一、熊蔵
一、伝蔵
一、恒作
一、市蔵
一、久万次
一、休吉
一、直作
一、氏馬
一、一人半扶持藤吉
一、吉之助
一、竹次
一、富蔵
一、直次
一、為四郎
一、半次
一、駒次
一、吉蔵
一、文次
一、金平
一、鹿次
一、与三郎
一、作次
一、栄次
 〆二十七人
  総計二百七人
   外二
一、米三石上分神職、宮林市正
一、米八斗以下下分、山下春台
一、米八斗浜田与之助
一、一人扶持中野真圭
一、米九斗藤倉浅次郎
一、米八斗池田参伍
一、二人半扶持補米五斗野村楠蔵
一、三人扶持早川元蔵
 (伊賀家、明治元年辰年日記)

この名薄の中には戸主のみしか記入されていない。親子で2人、3人の場合もあるであろうし、実際の兵員はこれよりずっと上廻っていたのである。
  差出
一、人員三百三十人
   但、自与力騎馬至歩兵迄
 右者山内主馬兵籍入人員如此御座候
   4月(明治元年4月9日)
              石川完爾
 御軍備方役所     (伊賀家、明治元年辰年日記)
この文書でもわかるとおり、伊賀家の幕末頃の実際の家士の数は330人とみてよいであろう。
明治2年(1869)藩政が改革され、宿毛の家士は高知藩に編入されたが、この時中村進一郎などは「二君に仕えず」といって、京都にのぽり親兵になったという。

伊賀家の家臣 伊賀家の家臣
伊賀家の家臣 伊賀家の家臣