宿毛市史【近世編-宿毛の侍-郷士と地下浪人】

郷士と地下浪人

土佐の郷士制度は、山内氏入国後、長宗我部の遺臣の懐柔、新田の開発、武備の増強の3つをねらいとして出来たもので、その後幾多の変遷をなしつつ、土佐の軍備の一大勢力となっていったのである。
宿毛市内にも多くの郷士の家系があるので、先ず明治初年の郷士の家系をさぐり、次で、郷士制度の変遷と、宿毛の郷士とを関連づけて述べることとする。


幡多士族年譜記載の宿毛の郷士
明治2年郷士は士族に編入されたのであるが、その際の差出しが幡多郡中士族年譜の中に収められている。
その中で宿毛市関係分の明治初年当時の郷士は次の通りである。
 氏 名 住 所 摘 要
伊与田能実山田村天明2年北俊蔵より初代茂八郎譲受
河野通澄元禄8年市川久之助より初代三太夫譲受
岩本重道天明8年奥川貞右衛門より初代儀平次譲受
伊与田能成嘉永4年野並清平より譲受
伊与田能顕安永6年中平九郎丞より初代唯兵衛譲受
和田義真芳奈村安永5年能津安左衛門より初代谷平譲受
和田間六文政9年河野広之丞より父又平譲受
浜田富義明暦4年、4代七兵衛中村附郷士に召出さる
小島政和戸内村文化8年浜田半五郎より父亦平譲受
小島政明弘化3年竹内弘作より父梅次郎譲受
示野則英明和8年井上源左衛門より祖父藤左衛門譲受
小島定章文化元年田村忠七より祖父安田民三郎譲受
川村道州宝暦8年岡村伝右衛門より初代弁治譲受
和田義正安永5年桐島喜三次より初代沢平譲受
西尾重成黒川村文久元年加久見村山崎鉄馬より本人譲受

以上15家であるが、これらはすべて山奈、平田地区だけであり、しかもこの内14名が譲受郷士である点が1つの特色となっている。譲受郷士とは郷士の2男3男や百姓がお金を出して郷士職を買った郷士で時代も割合に新しい家が多い。
伊与田能実年譜記
伊与田能実年譜記

土佐藩は兼山以後相当の数の郷士を取り立てているので、譲受郷士でなく、新規郷士もかなりあったのであるが、途中で他家へ抱えられて侍となったり、庄屋となった者もあるが大部分は郷士株を売りはらって地下人又は地下浪人となっていったのである。宿毛と関係ある郷士がその後どのように変遷をたどったかを幡多郡中士族年譜からみてみると次の通りである。
 氏 名 住 所 摘 要
市川  弥 宿 毛 村慶安5年初代重常百人衆郷士、9代重敦、伊賀家の騎馬となる。
押川直光 押ノ川村寛保年中初代光為郷士職を求む、3代光重伊賀家へ召抱えられる。
下村通政 山 田 村初代重正百人衆郷士、元禄14年他譲して浪人となる。
弘井富道 芳 奈 村初代浜田半吾郎文化8年郷士職を他譲して地下浪人となる。
東  政永 戸 内 村初代市蔵慶長6年浦戸にて百人衆郷士、7代太左衛門他譲して地下浪人となる。
猪石重高 黒 川 村初代清之丞、郷士職兼帯戸内庄屋、3代弥三郎郷士職のみ相続、5代又八他譲して地下浪人となる。
能津信忠 神 有 村初代安右衛門宝暦7年譲受郷士、安永8年2代長七他譲、神有庄屋職を譲受け、庄屋となる。
浜田富蔵 山 田 村初代広井新兵衛庄屋、4代七兵衛明暦4年中村付郷士、庄屋兼帯。

このように士族年譜を見ただけでも、かなりの異動変遷があることがわかるのである。


慶長郷士
山内氏治世の初期、慶長年中にすでに郷士を採用しているが、土族年譜によるとその中の1人に戸内村居住の地下浪人、東政永の先祖、東市蔵がある。市蔵は士族年譜には慶長6年(1601)浦戸で百人衆郷士に召出されたとあるが、百人衆郷士は正保元年(1644)の募集であるので、慶長6年か百人衆郷士かどちらかが誤りということになる。郷士のまま7代太左衛門まで相続しているが、太左衛門が川村幸八へ郷士職を他譲りして地下浪人となっている。


百人衆と百人並
百人衆郷士や百人並郷士の起用は野中兼山の発案によるもので、長宗我部遺臣を登用して武備を増強し、併せて新田の開発をはかろうとしたものである。
百人衆郷士は正保元年(1644)より募集がはじめられたのであるが、その条件として長宗我部の旧臣であること、新田三町歩以上を開墾することであった。
百人並郷士は承応2年(1653)より募集をはじめた。人数は200人であり、その条件の中で新田三町歩以上開墾は同じであるが、長宗我部旧臣に限定せず、故ある浪人侍筋の者の先祖をよく調査し、人柄等も厳しくただして採用したものである。
この百人並の200人についで、更に二百人並も幕集せられたので、郷士の数は数百人に及んだということである。(平屋道雄著『土佐藩郷士記録』、郷侍 巻控)
兼山の信任の厚かった淡輪四郎兵衛も百人並郷士の1人で、平田の雁ケ池を買っている。この淡輪四郎兵衛の日記の中に幡多百人衆、上山百人衆、下山百人衆、などの記録があり、更に「幡多郷侍共帳面には130人に及ぴ」とあるので少なくても130人の郷士が幡多の地に居たことがわかる。
当時、沖の島国境争い、篠山国境争いがあり、急に幡多の辺境の守りを固める必要があったための登用であろう。
これらの郷士はその後の他譲り等によって消えているのでその当時の全容を知ることはできないが、その一部の宿毛市関係分は次の通りである。
(1)宿毛の市川弥の先祖市常は慶安5年(1652)百人衆郷士として仁井田に領地があり、9代の時宿毛の山内源蔵につかえて宿毛の騎馬となっている。
(2)山田の下村通政の先祖重正は庄屋の3男であったが、百人衆郷士に召出され、元禄14年に他譲りして地下浪人となった。
(3)戸内の広井忠俊の先祖広井新兵衛は芳奈の庄屋をしていたが、4代の浜田七兵衛が明暦4年、野中兼山の裏書領地を以て中村付百人並郷士に召出され、郷士兼帯庄屋となったが、7代の時郷士職と庄屋職を兄弟で分けている。(以上幡多郡中士族年譜による)
(4)磯の川(中村市)の能津佐平太の先祖は仁平といって伊与野の百姓であったが篠山論争の時呼び出されて篠山で活躍し、その褒美として伊与野にある新田と持地を領地としてもらい、郷士に召出され5代藤蔵まで伊与野で郷士職をつとめたのであるが、勝手不如意となり宝暦7年に郷士職を他譲して地下浪人になり、その子藤丞の時磯の川に住居を替えたのである。(能津家年譜)

淡輪四郎兵衛雁ケ池を購入
淡輪四郎兵衛雁ケ池を購入


宿毛御預郷士(組付郷士)
野中兼山が死亡して9年を経た寛文12年(1672)に郷士30人ずつを各家老に配属させることになった。そのため伊賀家でも30騎の郷士を預ったのであるが、元禄13年(1700)当時の宿毛御預郷士は次の通りである。
  従是御預郷侍   知行高不記         
武市六之丞 村田市左衛門 溝淵貞右衛門 田村万右衛門 上原彦九郎
市川惣三郎 浜田六郎左衛門 島本安兵衛 北岡次郎左衛門 坂本清左衛門
川内権右衛門 能津与三右衛門 渡辺新三郎 中山孫次郎 中脇弥兵衛
徳広又三郎 松岡清太夫 岡林貞右衛門 能津新三郎 武石甚兵衛
坂本勘助 井上作之丞 改田清太郎 浜田九右衛門 市川藤兵衛
森田弥三之丞 土居孫六 松村五右衛門 岩川又左衛門 横山彦十郎
    〆三拾人
右之通御座候     已上
                山内蔵人
  元禄13年辰正月13日 
      中山源介殿       (竹村照馬、宿毛市史稿)
右の名簿には宿毛近くの郷士だけでなく幡多一円の郷士が含まれている。この30人を15人ずつ2組に分けて当番、非番が決められていたのである。この人達は新年の馭初は、与力の後に行ない、出陣の際は家老の軍陣に組み入れられ、与力か騎馬が指揮をするようになっていた。
延享2年(1745) 宿毛組付郷士は次の通りである
山内源蔵様
真崎 官崎伝兵衛 深木 宮崎惣十郎
山路 安田兼丞 間崎 間崎駒右衛門
下津井 徳弘政右衛門 久保川 野並文蔵
江師 武石誉八 津ノ川 岡崎助左衛門
川登 岡本孫左衛門 高瀬 岡崎瀬五郎
伊与野 能津文蔵 宗呂 岡林段右衛門
猿野 岡田万太郎 三崎 中村善次
清水 上原彦九郎
          (尾崎家文書、中村市史より)
以上15名が、宿毛の組付郷士であるが、この時も幡多一円のものが含まれている。この15名は宿毛組付郷士30人の半分であるので、当番の者のみを記入したのかもしれない。この文書には宿毛組付郷士の15名を含めて幡多郷士85名が記載されているが、その中で宿毛市関係分は次の4名だけである。
 伊与野 能津文蔵          楠山  篠田九右衛門
 芳奈  浜田友之進         山田  下村新九郎

この御預郷士(組付郷士)の制度は、明治元年まで大した変革もなく続いたのであるが、幕末に編さんされた『海南政典』によれぱ、御預郷士は、佐川の深尾と宿毛山内(伊賀)の両家には各50人、其の他の家老には各30人ずつが預けられている。
組付郷士にならなかった郷士も幡多には相当の数があったのであるが、これらの郷士は小組郷士として郡奉行の管下に属しており、嘉永以後は専ら海辺防備の任務についたのである。


幡多新規郷士
幡多郡は、土地が広い割合に人口が少なく、未開発の地が多かった。その上不便な土地であったのでだんだんと人口も減りだし、そのためせっかくの耕地も荒地になるものが多くなってきた。藩当局はその対策として、宝歴13年(1763)幡多新規郷士を起用して耕地を開発させたのである。
この時の条件は、身分的にも極めてゆるやかで、重罪人の家系を持つ者を除き、商人でもこれに応ずることが出来たのである(『憲章薄』御侍奉公人之部より)。それまでは士農工商の最下位にある商人は士にはなれなかったので、この制度は、商人にとっては特別の優遇ということになる。しかし、郷士職を他譲りしても、商人への譲渡しは禁ぜられ、商人郷士40年を経なけれぱ普通の郷士と同列でない等、やはり普通の郷士との区別は、かなりつけられていた。(御記録方郷士取扱の箇条書より)
この幡多新規郷士の制度で、かなりの者が登用されたと思うが、その後他譲り等で姿を消したとみえ、明治初年の幡多郡中士族年譜によると、宝暦、明和以降起用された郷士の家で幕末まで続いた家は僅かに11軒に過ぎない状態である。


譲受郷士
幕末から明治初期にかけての宿毛市中の郷士の数はすでに述べたように15戸で、そのうち14戸が譲受郷士である。譲受郷士とは郷士の職とその領知とを買い受けて郷士となったもので、郷士の2男3男の他多くの百姓が譲受けて新たに郷士となっている。
譲り渡す郷士の方は、病身のため郷士の職が勤まらなくなったとか、貧乏で金のやりくりがつかなくなったとか等の場合に郷士株を売るのである。
譲受けて新しく郷士となった者の中には、今までの百姓から一変して侍の仲間に入ったため、武芸の稽古やら海岸警備の任務につくやらでそれ相当の気苦労もあった事であろう。その上百姓あがりの郷士に何ができるかと、それまでの郷士からも冷たい目で見られていたのである。
譲受郷士がかなり批判されている事実もあるが、譲受郷士から伊賀家へ召抱えられ騎馬にまで出世した家もある。
押ノ川の押川直光の先祖は押川玄蕃の子孫で浪人であったが、寛保年間に郷士職を譲受けその後、寛政10年(1798)3代光重に至って、伊賀家につかえ、後には騎馬になっている。

押川直光年譜記
押川直光年譜記

郷士他譲りと地下浪人
享保17年(1732)の令書によると、郷士職を他譲りした者は、以前の地下人に指戻され、刀を指したり名字を唱えたりすることは許されなくて一般庶民に転藩したのである。
後には譲渡した後も名字帯刀を許されて士分を確保し地下浪人と呼ばれるようになった。しかし浪人といっても、すべてが貧乏とは限らず、多くの田地を持っている者もいたのである。例えぱ新田、本田五町歩を持っていた郷士が郷士の職分と郷士の条件の新田三町歩を売っても、まだ二町歩の新田や本田が残るという具合に、百姓株は残っているので、地下浪人となっても農業をするのには十分の土地を持っていた者もあったのである。
郷士職を売り渡して地下浪人となった宿毛市関係分は、幡多郡中士族年譜によると次の通りである。
 氏 名 住 所 摘 要
下村通政山田村初代重正百人衆郷士となり後他譲りして地下浪人。
弘井富道芳奈村祖父浜田半吾郎文政8年平田村小島秀平へ他譲りして地下浪人。
東  政永戸内村百人衆郷士であったが7代太左衛門が寛保3年に他譲して地下浪人。
猪石重高黒川村5代又六、元文元年他譲りして地下浪人。
この他に、神有の能津信忠は初代が譲受郷士であるが、2代が郷士を他譲りをし、神有村の庄屋役を譲受けて庄屋となっている。
地下浪人は、郷士が他譲りによってなった場合の他に、深尾出羽の家来であったが後に浪人となった戸内の広井吉満の家、伊賀家の与力から中村の山内大膳亮に仕え中村山内家断絶後浪人となって平田に住んだ福田貞行の家、山内家に仕えていたが病身のため扶持を返上して浪人となり医者となった戸内の尾川茂清の家などもあり、地下浪人がすべて郷士からなったとは限っていない。

幡多郡中士族年譜
幡多郡中士族年譜


郷士と海防
郷士は、異国船が接近した場合には、警戒のために配備につくようにされていた。
享保8年(1723)の指令によると、幡多郡在住の郷士や猟師は、異国船が清水に入港した時は大岐、伊布利、加久見、猿野に集結し、小間目に入港した時は、頭集と弘見に、柏島に入港した時は柏島と安満地に、安満地に入港した時は頭集と橘浦に、橘浦に入港した時は弘見、泊、芳ノ沢に、宿毛に入港した時は宿毛に集結することに決められていた。
文化7年(1810)には幡多郡中の郷士は藻津より鈴浦迄の海岸がその警備範囲で、異国船が来た時は早速かけつけて幡多郡奉行並ぴに以南や奥内に居る役人の指図をうけ、宿毛の組付郷士は宿毛へ集り、その指図を受けるようになっていた。
このように非常の際指定の場所に集合する郷士を駈付郷士といったが欠着とか欠付という字もしばしば書かれている。
弘化5年(1848)の「弘化駈付郷士地下浪人配賦」には駈付郷士と駈付地下浪人の全部がのせられている。それによると、山田、芳奈、戸内、平田、楠山等の郷士や地下浪人は養老より古満目迄の警備に当り、固場は三崎となっている。この分だけを左に記してみる。
養老より古満目迄 固場三崎
   外輪御物頭1人
     足軽20人 御筒役弐人
右欠着郷士
三崎 矢野川三郎 姫ノ井 森 孫蔵 小才角 二神勝平
伊与野 上岡半蔵 平田 川村貞衛 安田弥太郎
示野久米蔵 小島常太郎 山田 浜田繁助
戸内 小島梅次郎 芳奈 和田又一 横瀬 多和左源次
横瀬 宗崎庄作 多和辰五郎 下山郷 今井清次郎
間崎敬六 井上左近馬 室津森平
土居大吾 宅間源左衛門  〆弐拾人
右同地下浪人
三崎 泥谷莱吾 楠山 中山左四郎 楠山 篠田淳三郎
当分下川口 依光元迪 下益野 上原百太郎 片粕 細川八雄次
戸内 東孝之助 福田猪之助 広井猶蔵
川村藤蔵 平田 猪石猪之助 芳奈 浜田栄之助
山田 下村栄八 文野萬之助 岩本弘之助
立田孫次郎 横瀬 下村武蔵 田辺才右衛門
宮崎安之助 小才角 岡本吉太郎 上土居 立石彦次
依光泰益 九樹 前野早太 浜田三作
当分黒川 中屋銀太 大須浦 島喜右衛門 当分益野 浜田敬輔
  〆弐拾七人
         合四拾七人(平尾道雄著「土佐藩郷士記録』)
異国船が来た場合には早速駈集り役人の指図を受けること、佐川、宿毛、安喜土居付の郷士は今までの通り、とあるので、右の郷士、地下浪人以外に宿毛土居へ集合する郷士もあったはずである。
伊賀家は柏島から藻津までを警備範囲としていたのであるが、文政年中の能津家文書によると、
一、柏島より藻津浦まで相守人数左の通り
 宗崎安之助下村順之助田辺才太郎岩本谷平文野利太平
 立田寿助能津重次吉本用八浜田半五郎中山佐五郎
 猪石千代次立石藤左衛門前野治三郎
 丑年(文政12年)より年番の筈
 川村孫三郎上岡半蔵和田又市和田弥三平
右者異国船御手当のため人数賦方仰付られ取扱の方の儀は去年より御二書を以て仰付られ候通云云(能津家文書)
とある。この中には郷士も地下浪人もあるが、これが伊賀家配属の郷士と地下浪人の一部であったのであろうか。


明治維新と郷士
明治2年11月24日、郷士は4等士族上席に位置ずけられて士族となった。その時居住地以外の領知は召上げられたが居住地の領知や扣地を持っていた者はそのままその士地に留まりやがて農村地主となり、失業士族を中心とした自由民権派と対立する国民派へとなっていったのである。