宿毛市史【近世編-農村の組織と生活-農村組織】

5人組制度

5人組制度がいつからはじまったものか明らかでない。寛文の改替以後ではないかと思はれるが、はっきりしたことはわからない。『元禄大定目』(1690)には、キリシタン宗門禁制のことと、「町中の者はすべて5人組に申しつける」とある。しかしそれより前の寛文10年(1670)の安芸郡赤野村の庄屋の差出の中に、万一キリシタンをかくしておいて他から訴へ出たときは、5人組の組頭をはじめ組中の処分を申しつけるとある。5軒から10軒くらいが1つの組となり、その中の1軒が組頭となる。その組頭は必ず家持ではあるが、必ずしも本百姓でなくともよかった。大工や間人も組頭をつとめている。職人もまた5人組を構成していることからみると寛文10年には赤野村には5人組が組織されていたのである。
徳川幕府のキリスト教禁令は慶長17年(1612)からはじまり家光による5人組の制度は寛永元年(1624)であり、島原の乱は寛永14年(1637)である。キリスト禁教に5人組を結びつけるとすると寛文年間よりはるかにさかのぼることになる。(『土佐藩の法制』)
天和2年(1682)にキリシタン宗門禁制の高札が町方に立てられた。「かくしおき他所よりあらわれたときは名主と5人組頭まで厳科に処せられるべきもの」であると書かれているので町方にも五人組はあった。


浦分5人組
浦分も同じであったと考へられるが、資料としては年代的にかなりのへだたりがある。「5人組の掟は前々から定められておるが、この頃は守られなくなったので、この度協議して次のように定めたので浦々へ申しきかせよ」(文政元年、1818)とあるのをみると、改めて布達したものと思われる。
1.諸種の税金は1軒ごとに取り立てていたが、今後は5人組中をまとめて取立てる。若し1人でも滞納者があるときは組中の責任とする。
1.盗みはもちろんのことばくち、その他の勝負ごと、不法の商売は法令に背くものである。また他国者か無切手そのほか不審な者に宿をかした者、またはこれらを隠した者が組中にあったときは本人と組中一同を処分する。
1.親不孝、家業を怠る者、酒色にふける者も右に同じ。
1.水主、間人は夏の漁のひまに苫茅を取っておいて漁のできないときも無益に日を過さないように心掛けねばならない。もし働かないで困るからといって救米等を願い出る者が1人でもあるとそれは組中のおち度である。もし理由があるときは調査の上処置する。
右の通り浦々へ5人組を取立てることになった。家並5軒に1人の頭をきめて1組とする。各組合の中に、万一心得違の者があって、組中の意見を聞かない者があれば、組頭は庄屋へ届け出ること、組中は1軒の世帯と同様に心得て、昔の通り質素を旨とし、孝心奇特その他きまりを守り、他の模範となるような者に対しては褒美を与へるように、すべて賞罰共に組中へ申しつけるようにすること。これは「前々から申しつけられていることであるけれども、改めてそれぞれ読みきかせて堅く守るように申しつける。」(『土佐藩漁業経済史』)

安政布達
安政5年(1858)に奉行神山左多衛、大庭毅平の連名で出された5人組についての命令によると、「地下のとりしまリは5人組を立ててあるが、それも名だけになって実際はないも同然になっているので、新に規定を設けて来年殿様が江戸から帰国するまでに、5人組が正しく行われるように心得よ」とあって具体的に次のように示されている。
1.隣るもの5軒を1組とし1人を組頭にすること。
1.組合せのとき端数がでたときは隣へ入れること。
1.家数が10軒に定りない者は9軒でも1組とする。
1.10組50軒を1組合とし惣組頭を1人おくこと。もし端数の時は15組までは1組合とする、16組以上のときは2組合とすること。
1.郷立のときは2ケ村3ケ村で1組合になるほどの小村もあろうが、この場合2、3ケ村で1組合とすること。
1.惣組頭は帯刀、麻上下を着用すること、5人頭は帯刀、袴着の格である。今まで帯刀御免の者は本田1町以上を耕作している百姓は従来の通りである。但し店屋札や商売札などを持っている者は右の役につくことはできない。
1.惣組頭は庄屋、老を経ずに直接奉行所へ訴へ出て差支へない。(『大内町史』)
そこで従来の地下役と5人組との関係はどうなるか。それについて伺書が出され、その答へは『大内町史』によると次のとおりである。
伺‐‐‐‐村浦で、地頭、組頭として給米を遣わして御用と地下用をつとめているが、今回の惣組頭を任命すると今までの地頭組頭は免職とし惣組頭へ遺すこととし、御用地下用とも右の惣組頭につとめさせるようにするかどうか。
下知‐‐今までの地頭組頭は免職である。
伺‐‐‐‐今までの地頭組頭は5人組の内に入れるべきであるかそれとも除外するのか。
下知‐‐組頭は5人組の内に入れて5人頭とすること。惣組頭、老には給米の必要はないが、組頭の内から惣組頭を申しつけるときは今までの給米を遣わすこと、また今まで組頭の取扱っていた御用、地下用とも惣組頭が取扱うべきこと。
これら地下役の階級について惣会の申合せとして次のように記されている。
1.惣組頭を申渡すときは袴を着用させること、また常に帯刀のはず。
1.地下中の諸寄合のとき惣組頭、給地組頭、5人頭と席順をきめること。地下浪人で惣組頭となった者でも老の次席のこと。
1.百姓で本田1町以上耕作の者はたとへ宛地にしておる者でも麻上下着用のこと。また宛り地で1町以上耕作しておる者は麻上下の着用はできない。宛り地の人々は1町以下の場合も同様のこと。
1.5人組頭ならびに底地1町以下の耕作の百姓は帯刀袴着のこと。
1.新田1町以上の耕作者は右に同じ。
地下人どもは庄屋、老の門内へ下駄ばきで入ってはならないが、惣組頭、五人頭はさしつかえない。なお御役人へ対して用のある者はすべて下駄ばきで入ってはならない。
以上は地下役人に対しての命令であるが、これに対して地下浪人たちへは別に説明した。
「地下浪人は、みな家筋の者で重要な軍備にも加えられる身分であるが、この度は地下人と同じように5人組に組入れられることになったので、不満もあることと思われるので呼び出して役場に於て説明したのである。」(『大内町史』)として5人組の精神について特に述べているのである。