宿毛市史【近世編-農村の組織と生活‐農村組織】

農民の生活

藩政時代は田畑からの貢租を経済的基盤としたために、農民は最も重要であり、士農工商と呼ばれているように生産に従事する農民を武士につぐものとし、生産に従事しない商を下級のものとして軽蔑していた。しかし農民が優遇されたわけでないことは明らかである。
「郷村の百姓どもは死なぬように生きぬようにと合点致し修納申付るように」とは徳川家康が代官や支配所に対する命令であるという(『昇平夜話』)。これは農民からあまり多くの税をとリ立てて農民が困窮しては税をとりたてることができなくなるので、死なぬ程度に税を取りたてる。あまり農民の負担を軽くして安楽に生活することは怠慢になる基であるから、死なない程度に年貢をとりたてる方針を明らかにしたものである。
「百姓は財のあまらぬように、不足なきように冶めること道なり」(『本佐録』)と云うのも家康の言葉と同じ意味である。また『地方落穂集』には井戸の水はほどよく汲むときは1つ井戸で田家をうるほすことができる。汲むのに余裕をあたへると、いつまでも水がつきることがない。火急に汲むと水が忽ちにかれ、泥がまじって水の出方も悪くなる。農民が納める年貢も同じことでこのようにするときには農民もいたまず、いつまでもつづくとあるが、「農民は飢えや寒さに困窮しない程度に養うべきである。農民が豊かになりすぎると、農業をいとい業をかえるものが多くなり、あまり困窮すると離散するようになる」(『昇平夜話』)、幕末になっても為政者はそのように考へていたのである。
「農民は国の宝である。1人でも百姓株が減少するならば国主、領主の大罪である。農民のおごりを防ぎ耕作に力をいれるように世話をするのはいうまでもない」と岡山藩主池田光政は布達している。
「士農工商の四民一つもかけてはならねども、中にも農夫は百姓と訓じて深き理有り、世界に民の親は百姓なり、米穀をうみいだすなり、天地は父母にて五穀草木は万民のすべて生物の乳房のごとく、その乳房は百姓の事なるべし、上1人より下万民の母にて風情いやしきとて下に居りてはなし。米穀はおもて座敷とこの上にかたきとて土地につむなり、農人よるひるいとまなく身を泥になして月星をいただく。常に雨露に身をくるしめられ、食べ物はあぢわひなくうえざればよしとす。一寸の日影をいとふ誠に不便なるいとなみかな。葛蕨を堀て白実は石役いしやくとて御用物にささげ、くろ実の内よきを親にささげて黒実ならで食、誠にならすなり。葛蕨なき所はほぜ、ところを堀て露命をつなぐ。寒きとて着のままなればはだえをかくすぱかり、またはだか身をかくす事さへならぬ哀れなるもあり、適々やすまんとせしかども公役夜中にもつげ来ればまかせ、地しん雷雪の中にても違背ならず、しかも身に及びがたき重荷或はかごに乗せてけんそなる山坂をかきあげ骨をくだき心労する。かごのうちゆらざるように是、上を恐れ直にその人を主君と尊みうやまふ」(『大海集』)と安永4年(1775)播多の野伏桜木蛙井は農民のことを書いている。ここには農民の困窮の有様が端的に語られているが、当時の農民の生活の実態を示すものは見当らない。寛政3博士の1人である柴野栗山が、幕府への「上書」によると「よき田地5反歩ほど持った百姓が寒暑を冒して一身の油をしぽって出精すれば、水早の被害がなければ米7石、麦7石もできる。その米の半分を年貢に納め、残りの3石余を売って1年間の雑用にあてる。当時の値段で金子3両余になる。そのうちから村入用を田地1反につき銭3百文ほど出すから3両ほどしか残らない。それで衣類、農具、世帯道具を拵らえ、法事、弔い、嫁取、婿入の祝儀等をする。1年中の飯米は麦を食うが、麦は早く腹のすくもので、その上百姓は骨の折れる仕事をするから1日には1人前1升も食はなくては働けない。そこで家内7人もあれば7石の麦では不足するので、芋頭だの大根だのを塩で煮て食う所もある。また「きんか粥」と云って粟、もみ(もみと申候は米の皮に御座候)に十分の一も米を加えて粉にして、それを湯でかためて食う所もある。このように困窮した生活で、飢饉水旱にあうか病気にかかれぱ臨時の物入りであるから、1年に銭の百銭も余分に出せば誠に骨髄の油をしぼられるよりも悲痛なものである。」(『近世農民生活史』)とあって、当時の百姓のみじめさを物語るものであると思われる。
農民の耕作していた田地は平均どれだけであっただろうか。「一般的には1町歩以下の自家労働力に基づく小農経営が支配的で、新しい方向としては地主手作経営が、停帯的なものとしては寄生地主があったとみることができよう」(『江戸時代の農民』)とあるように農民の耕作する田地は1町歩以下で、10軒に1軒位の割合で、生活し得る者がいたのではないかと云われている。田地を耕作するについて『清良記』(寛永6年、1629)に1反について1年間の耕作の種類と人夫役とが詳細に記されている。尤もこれは一領具足の郷士のことではあるが、これに要する労役は百姓でも変りはないことと思われる。仕事の内容は冬至前に耕す「槿農」(三人役)から初まって、施肥1人、苗代拵え4人、田草取5人、稲刈2人、稲取り1人、俵あみ1人、年貢納め5人に至るまでの所要労力が細かく計算されていて合計33人役であるという。
   麦跡  3反 75人役、1反に付25人宛
   古堅田  (冬は水乾きたる田の事)3反 99人役、1反に付33人宛
   水田  3反 81人役、1反に付27人宛
   山田  1反 38人役
   合計  1町 293人役
この人夫役の合計293人役は「夫の働は達者不達者の中分なり」とあって、直接従事する者の能率はここでは一応平均値を以て表示されている。のみならずこの男子の293人役の外に女子の「2百人役余も入るべく」とあって、当時の農業も1町歩の経営には少くとも2百人役余の女子労働を必要としたことが推察される。壱町には牛馬2疋は不足なれども皆能働き達者の積りなりとあって、此の外に夜業などは計算されていないのである。
麦作については1反当り3人役をもって打ち起し、種蒔き施肥に10人役、中削り水遣り2人役、2番削り4人役、麦刈り3人役更に運搬して終了するのであるがこの合計1反につき22人役であり、3反では66人役である。この場合も牛馬の使用や女子労働があることはもちろんである。
畑作についてであるが、田地1町を所持する一領具足の侍は「畑2反か3反なくて叶はず」と云うことである。この畑作2反5畝は次の3種より成り、第1は麦、大豆、小豆、大角豆などを作る畑を1反とし、これを25人役で1年2度の作と見積る。第2は「萬の小作品々を仕付ける」畑を1反とし50人役を要し、第3は菜園の5畝で15人役が見積られる。合せて90人役で畑2反5畝の耕作がなされるのであるが、これに計上されない雑多な労力を必要としたことが想像できる。
なおこのほかに人夫役として養蚕20人役、燃料120人役、家屋修理20人役、用水路浚渫20人役、茶拵10人役、農具整備(莚萱取、蓑葉萱取、農具手入、鍛治)12人役、牛馬飼育120人役、肥料用草苅40人役の合計362人役となり、田畠1町2反5畝を耕作するに要する人夫役の総計は811人役となるのである。
この田地から反当収穫量は鎌倉時代で1石、室町時代中田で1石2斗、江戸時代に至ると平均1石8斗であった。それでこの収支をみると1反で籾3石とすると米にして1石5斗となり、支出は種籾年貢や人夫賃などを差引くと1反について米2斗8升の不足となるという。岡山付近での寛政年間での状態は、条件のよいところで1反で米6俵の収穫で、年貢4俵、高がかりに1俵、残るところは1俵である。平地と山地をならして1戸の耕作を6反とすると残るのは6俵である。家族5人として食物は麦を食うとしても、牛や農具、肥料、衣服、家具、住宅の修繕、塩、味噌その他の入用、親類吉凶の費用、寺社のつとめなどをすると不足する。凶年や病気のことを考へると10年も堪えられないようであるが、奉公、職人、商人となり余業でどうにか飢えないにすぎないとしている。(『江戸時代の農民』)
これは単に岡山付近だけのことではなく全国的にどこも同様であったものと考えられるのである。
土佐藩のうちで百姓の収支の明らかな実例の一として、安芸郡川北村の収支について次の記録がある。
    収入
 米2,498石8斗     川北村1ケ年出来米
 麦690石8斗3升
 蕎麦98石3斗4升
 田芋140石3斗3升3合 但荷数4,330荷1荷升目1斗5升とし、尤1升ニ付米5合の割合
 唐芋816石4斗8升、唐芋荷数10,206荷1荷ニ付升目2斗5升、1升ニ付米2合5勺の割合
〆雑穀3,248石7斗8升3合
    支出
 米974石9斗2升9合 但本田新田御貢物並運賃造用米払
 米161石4斗9升5合 但五藤主計様御知行並役知御物成米
 米43石9斗1升7合  但新田知行役知領知物成米払
 米258石4斗      但他村浦へ出る加治子米払
 内〆1,438石7斗1升4合(当然租税加治子ニ支払ふべきもの但村費を除く)
 米3,357石 喰捨米
  但人高2,124人の内259人7才未満の者引残て人数1,865人、1人に米5合食を以て1日に
  9石3斗2升5合、1ケ年分この如し
差引米546石5斗8合 不足    (土佐群書集成川北文書)
となっている。この計算では259人の子供が切捨てられているが、大人も5合では不足かも知れないので仮りに全員に5合宛とすると喰捨米が約5百石増して、不足分の合計は千石を越えることになる。この不足分をどうして補ったのであろうか。それは米を食はず大部分は雑穀を主食としていたのである。農民が食糧を生産しながら飢餓の状態にいたことを如実に物語っている。このことは農民全般のことと考へてよいのではなかろうか。10石の百姓では食えなかったのが実状のように思われる。