宿毛市史【近世編-農村の組織と生活‐土地制度】
くじ地
くじ引で耕作する田地をきめるやり方で、廻り地、割替地などと云われている。「これは1村で耕地を管理し、それをいくつかの株(持分)に分けて村民はそれぞれ株をもち、それに応ずる土地を一定期間(10年が多い)ごとにくじで割替える。河沼にそい災害の多い地方などで被害負担の公平を期する目的で行われ、全国に散在した」(『地租改正』)のである。
九州、四国、東北にもあったがその中でも新潟県では明治20年当時にも172村に残っていたと云う。高知県下でも幡多郡三原村などでは明治になってもやはりつづいていたようである。その他県下で安芸郡北川村、長岡郡岡豊村、土佐郡一宮村、高岡郡日下村、中村市、三原村、宿毛市などでくじ地制が行われていたことか明らかになっている。
くじ地制度がいつから初まったか。『元禄大定目』(1690)の田地方定に「村々百姓扣の田地、大抵甲乙なき割合にて耕作せしむべく、庄屋、組頭等は扣地として熟田をより取るべからず。附たし庄屋給田は言うに及ばず昔からの庄屋扣地、売買質物などに入れること堅く停止の事」とあって、百姓の耕作地に甲乙のないように計らうことを目的とし、庄屋、組頭など村役人が良田を取ることを禁じているのである。法制的にみればこの時期であると考えられるが、それより前、2代藩主山内忠義が元和10年(1624)正月17日の定書案(『近世村落自治史料第二輯』)に「庄屋ならびに年寄百姓らよき田畑をひかへ来り候につき小百姓迷惑せしむる由、□□□□□合くじ取にて作り申すべき事」という文書があるので、この時代ごろから高知藩ではくじ地制が初まったものと考えられている。それから約70年たって法制として発表されたものであろう。「田畑10町以上はくじ見とす例へば15町は3つに分ち5町を以て1帳とす、戸長くじ取の上1帳に定め、1帳分改め前の如し」(『旧藩税法』)とある。但しこれは本田だけのことで10町以上の村を対象としたものであったことは前記の通りである。
「田地に名みょうと云う事あり、中田、上田、下田と品を組わけて竹の札に書きたるものなり。それを自分々々百姓所持して居り、5ケ年に地割くじと云うものをするなり。元来この田地は芝地を開きたるものは百姓なり。その元祖の百姓が一人一人別の札に書き帳に記して所持しそれを一名前と云うことにて名と云い出したるものと見えたり。さてその名を取り集めて地割をする時は、中田、上田と自分所持の外にも右の名を持ちて居るものある故、反数も免米も同じ様の名と取替て所をかえて又5ケ年まで右の地を右百姓が作る事なり。これが廻り地と云うものなり。
又堀ぬきと云うものはいつまでも動かぬものなり。それ故知行取の侍が此男我等が知行所ぢやと所をさして口広く云えども5ケ年かわりにいづくへ所は行こうやら知れず。然れども地の石免ども違はなく、だりひづみなきように割る故加治子米は例年の通りその百姓百姓より払う故内々の事を知らざる故なり。
さてその名の札を人に売りたればその百姓はたとひ給知の百姓なれば給主の百姓ではないと云う者なり。然れども売りけんの証文始末にしても其地を質物に入れ米を借りまたその田地を直に相対にして証文はそれにして先前名主の名前を切替えずその田地をあたりて前の百姓が作リ来るなり。それは証文は売券なれども実は借貸と云うものに落るなり。名前を切り替えたれば公事はないことなり。右の名前をきりかえずに直に当る故訴えが絶えぬなり。此のところを合点せずしては御定目の上合点のゆかぬ事あり宇賀にて噺うけたまわる書付おくなり」(『御郡方御定目稿』)とあり、安政4年(1857)の安喜郡府定目には「本田くじ地廻扣所に寄り年々の廻り作に相定有之村柄も有之趣、右は地方等閑の幣有之候に付向後5ヶ年以上を以てくじ取致すべく候」(『土佐藩の法制』とあり、毎年くじ取りとした為に翌年は誰が作るかもわからないために肥料もやらず、草取リもせず、その他の田地の管理をなおざりにし耕作意欲を失う結果を生じたので本来の5ケ年以上とすることを求めたものである。
文久元年(1861)幡多郡岩田村大庄屋兼松善助の差出扣に「村々御本田の田方分8反を以て1名と唱へ3ケ年以上の年限を以て年満ちの節は名本、老、百姓惣代の者ども立ちあい甲乙なく地坪を割合せ百姓どもくじ取の上右年限中各々扣地相定め候得ども川掛村々の儀年々の損田少なからず右に付地坪の厚薄の違も出来ならし仕らざる時は右の年限にかかわらず詮議の上くじ取仕り候義も御座候、越し方より定扣のくじ取仕らざる分其余くじ地の外定メ地或は定田などと相唱へ候宛扣の廉も御座候」とあって、くじ地以外の土地もあることを明らかにしている。この場合は1くじ8反としている。これも所により帳付百姓(本田百姓)の数と地坪によって広狭ができている。
芳奈のくじ地
兼松善助の差出より前、嘉永4年(1851)の宿毛市山奈町芳奈の浜田文書によると、1くじ拾石で62番というのがあるのでかなり広い場所である。宇三平は2くじ(2株)の所有者であるが、この場合これに書かれた5人との関係については不明である。
弐番組 宇三平扣
33番 主作
本 冶三郎
下□□ 長左衛門
才 次
外 馬次 慶 次
下弘井
〆拾弐廉 合米拾石也
嘉永4亥年改コト子ノ年より6ケ年
7月 大庄屋
弐番組 宇三平扣
62番 主 作
元 常 蔵
甲三郎 五右衛門
森 作 長左衛門
上寺
〆拾壱廉 合米十石也
嘉永4亥年(1851)改同子ノ年より6ケ年居、
7月 大庄屋 印
はり紙 25名 □□
宿毛市内和田の、くじ地としてではなくて土地売買の庄屋の扣帳(有田家文書)に次のようなくじ地と信じて間違のないものがある。
八番名地十石 九番同五石
廿三番同七石五斗 四十二番同十石
卅一番同十石 四十五番同十石
卅九番同五石 四十六番同五石
四十番同五石 五十四番同十石
これは1名10石の名地の耕作者がその全部または半分の5石を売ったと思われるものである。(土地売買の項参照)
宇須々木村のくじ地
現在までに発見されたもので整っているくじ地資料としては宿毛市宇須々木の『名地くじ取評定記』(明治3年7月25日)がある。これは従来くじ取りで耕作者を決定していたのを地券発行のため所有権を固定するためのものである。なお明治27年に水利関係記事が追書として書きこまれている。
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宇須々木のくじ地 | 和田のくじ地(有田家文書) |
名地くじ取評定記
1. | 地下人ども一同が協議の上今年7月25日から各自の持地を決定することに異議ありません。若し洪水その他で損害を受けたときは、2人役までは当人が取除くこと、3人役以上のときは一同の出役とすること。 |
1. | 損害が10代以上の場合は地下役が見分の上税金を地下方が一部負担するが土地によっては1ヶ年、2ケ年或は3ヶ年間の免税を定めることもある。右地下役見分の上年限を定めたときは地下人から異議を云はぬこと。 |
として評決し、シヅエ切と用水順番を記して決定したのである。最後に、前書の通り名組いたしシヅエならびに用水順番を地中一同評議して決定した上は後日に異議を唱へないこと、今後古い云伝へまたは日記などで争論を始めて地下役へ申出ても取上げない。今度の改正に対して不法なことのないように心得るべきである。止むを得ず願出た場合たとへば水順などについては協議する。
右地下中評定のことは此帳面へ記し地下役へ保存しておくから今後の問題は地下役の差図を受けること
| 庄屋代 | 宇吉 |
| 老 | 久吉 |
| 惣組頭 | 与吉 |
| 5人組頭 | |
| 百姓中 | |
| 間人中 | |
7月26日改 | | |
| 東川原田名 | | | |
| | | 庄屋付 | 覚平 |
1. | 川原タ | 田八畝 | 一番 | |
1. | トゝノ下 | 同四畝 | | |
1. | 川内ヤシキ | 同五畝 | | |
1. | 手打ヶ谷 | 同弐畝 | | |
1. | ノチノ下 | 同三畝 | | |
1. | 西谷 | 同七畝 | | |
1. | 梅ノ木谷 | 同壱反壱畝 | | |
1. | カチ取 | 同壱反 | | |
1. | 蔵ノ後 | 同四畝 | | |
1. | イタノ口 | 同壱畝 | | |
1. | アセチカ谷口上 | 同三畝 | | |
〆 | 五反八畝 | | | |
| 外ニ新キ入 | | | |
| 西谷清(本?) | | | |
1. | 畠 | | | |
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丸田名(24番) |
右は1番のくじ札に定められた土地であり、最後に外に新キ入としたものは、7番、13番、15番があるだけである。宇須々木村の28組は次のとおりである。
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1 | 東川原田名 | 庄屋付覚平 | 五反八畝 |
2 | 柿ノ木田名 | 本蔵 | 五反四畝 |
3 | 上長谷川名 | 宗良吉 | 五反六畝廿歩 |
4 | 上川久保名 | 孫次 | 五反一畝十八歩 |
5 | 清水川名 | 熊次 | 六反 |
6 | ニセマチタ名 | 馬蔵 | 五反六畝十歩 |
7 | イワ井タ名 | 庄屋付克之助 | 五反五畝廿八歩 |
8 | □シタ名 | 宗左衛門 | 五反三畝 |
9 | ミナト名 | 常平 | 五反二畝廿五歩 |
10 | カチヤタ名 | 大蔵 | 五反九畝 |
11 | 下モヤシキタ名 | 善平 | 五反二畝十歩 |
12 | トハカ谷名 | 三平 | 六反三畝 |
13 | みそた名 | 庄屋付弥上久蔵 | 五反五畝 |
14 | 福良吉田名 | 金次 | 五反六畝 |
15 | カマタ名 | 改蔵 | 五反五畝 |
16 | 西川原タ名 | 老 久吉 | 五反七畝廿歩 |
17 | 上川原タ名 | 覚平 | 六反一畝 |
18 | 中代名 | 良蔵 | 五反一畝 |
19 | 松ヶ田名 | 亀吉 | 五反六畝五歩 |
20 | 下川久保名 | 和助 | 五反二畝十五歩 |
21 | 門ノタ名 | 銀平・□作 | 五反二畝廿歩 |
22 | 和田ノ下名 | 和吉 | 五反六畝十歩 |
23 | 下ハセ川名 | 彦蔵扣 | 五反八畝 |
24 | 丸田名 | 宗之助 | 五反五畝 |
25 | 門タ名 | 銀平 | 五反四畝廿歩 |
26 | 流田名 | 久吉 | 五反八畝 |
27 | 表名 | 広蔵 | 五反五畝 |
28 | 上ヤシキタ名 | 友蔵 | 五反四畝廿五歩 |
以上でみると庄屋付覚平は2くじ(2株)、銀平は1くじ半を持っている。平均すると一株五反五畝廿二歩で、合計は十五町六反一畝十六歩である。弘化5年(1848)の有田家文書によると宇須々木村の本田地高は二五九石四斗五升六合であるが、「公儀御普請夫

坐頭米左の地え割事」の中の本田として一八二石六斗三升五石となっている。一反一石とすれば約三十石の開きがあるが、しかしこれは当時の宇須々木の実際の地積とみて差支へないものであろう。
右の本田地高二五九石四斗五升六合が一八二石六斗三升五合となっている理由はわからないが、その他の地高のうちで三損荒その他で引かれているところを見れば、この場合も荒地として考えてよいものと思われる。
明治になってくじ地を各耕作者に固定する為に地券を発行したのであるが、くじ地の耕作者はそれを喜ぱなかった。それは災害の場合その復旧が自己負担となるためであった。宇須々木の場合も災害復旧のことが明らかにされている。一部が災害をうけたときは全耕作者が復旧の責任を負うことを明記しているところをみると、やはり耕作者の自己負担となることを恐れたのであった。