宿毛市史【近世編‐農村の組織と生活‐租税】
土免定
年貢とは租税のことであって、古くからいろいろに呼んでいるので理解しがたいのであるが『地方凡例録』には次のように書いてある。「日本紀には年貢のことを多知加良と云へり、是は田力たちからにて民の力を以て作りし米穀なれぱなり、また大知加良おおちからとも云う。すべて地租のことをちからと云うより年貢を司る役人を主税ちからとよむことなり。また年貢のことを古事記には御調みつぎ、延喜式には地子、東鑑には年貢或は乃貢のうぐまたは済物なしものなどとあり、また日次記ひなみのきには物成と云へり、徳川家にては取箇とりか、成箇なりか、物成また関東にては年貢のうち夏納めるを夏成ととなへまた田畑の年貢を本途ほんとと云い、その外諸役、運上、冥加永(運上と同義なり)、分一等の類を小物成ととなへるなり。」とあるように、これらの言葉が統一されて使用されていないのである。
田租は免奉行所で、櫓帳、物成帳、検地帳、野取帳、新田帳を参考にして決定する。本田は六公四民、新田は四公六民と一般的に云われているが、実際はなかなかめんどうであった。
「田合一坪に付

一升三合ありと見積る時は、是にて二歩の肥料二合六勺を引去り(俚俗肥灰料という)残

一升四勺を三百坪に乗ずれば

三石一斗二升を得、これを折半すれば正米一石五斗六升となる。(土佐国田方の通例

一石を以て米五斗を得る、これを合摺という。)即ち四民六公の法により六を乗ずれば、九.三六となる、これを九ッ三分六厘の土免と云う。即ち正米九斗三升六合を官納する也。田租の厚薄各村甲乙一様ならずと

も、本田租額の方法は大略これに準ずる也」(『旧藩時代租税法』)
本田六公四民の場合は六歩取りと云う。田一反は三百坪であるから免方奉行がこれを検分して出来米を見積ったのを田合という。田合とは一坪にいくらと定めることで、以上は検見の方法である。
田租に厚薄甲乙があると前項にあるが、その種別と税率については左のとおりである。
| 本 | 田(六公四民)山内氏入国以前からの田地。収穫の六分が正租で、残り四分のうち二分が肥灰料、普請出役その他で、残る二分が作徳米といつて農民の所得になる。 |
| 新 | 田(四公六民)山内氏入国以後の新開の田地。収穫の四分が正税、残りの二分が諸課役料、二分が加治子、二分が作徳米。これは農民自身の開墾であれば加治子は不要である。 |
| 古 | 堀明新田(六公四民)本田の中より検出したもので新田に属するが、農民に開墾の労費がかからないので、税率は本田に準ずる。但し従来無責の過怠料として前3か年分の貢物を取立てる例である。 |
| 上 | り新田(上り地)(六公四民)知行地をとりあげたもの。右と同じ理由で、税率は本田と同じ。明治2年以降士族に現米支給制を採用したので知行地は新田でも六分を正税とした。 |
| 江 | 廻塩田新田(五公五民)海浜に堤防を築き新田を開いたもの。堤防の人費に官の補助を受けるので新田でも五分を正税とし、その一分は堤防修築費とし、残る五分のうち二分が諸課役、三分が作徳米。 |
| 役 | 知新田(二公八民)士族が自費で開墾したもの。当初は無税として禄の不足を補うたが、後二分を正税とし、残る八分のうち二分が諸課役、四分が加治子、二分が作徳米であった。 |
| 領 | 知新田(二公八民)郷士の開墾したもの。郷士の兵役として領有を許したもので、歩合は役知と同じである。 |
また『土佐国地方慣習手引草』によると、次のような呼ぴ方もあって、その内容についての説明によると。
| 六歩取地、六斗公租、四斗民利(二斗作徳米、二斗肥灰、耕夫賃) |
| 四歩取地、四斗公租、六斗民利(二斗作徳米、二斗加治子、二斗肥灰、耕夫賃) |
| 五歩取地、五斗公租(四斗公租、一斗修覆料)、五斗民利(一斗加治子、二斗肥灰、耕夫債、二斗作徳米) |
| 二歩取地、二斗公租、八斗民利(二斗領主の利、二斗加治子、二斗肥灰耕夫賃、二斗作徳米) |
| 八歩取地、八斗官入(四斗公租、二斗加治子、二斗作徳米)、二斗民利(肥灰、耕夫賃のみ) |
このうち八歩取地は藩主の所有に帰した。これによるとどの場合でも農民の作徳米は二歩に限られている。時代によって田方の貢租にも変化があったことと思われるが、いつの場合でも農民の収穫が多くはならなかった。
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検見坪刈図 |
検見によって貢租の規準がきまり、租率を乗ずると租米が決定する。租率のことを免と云う。免が決定されていても災害があったときには改めて、検見を行なって決定した。坪刈をして決定するのであり、これは毎年の作柄に応じてきめるのであったが、それでは収穫時期を失したり検見のための費用もかかるので、手数を省略して5年なり10年なりの租率を平均し、一定しておくこととなった。定免法であるが定免でも台風その他の大被害があった場合は農民は願い出て軽減してもらうことができたが、領主の方ではなるべくそれを防ぐために検見の奉行の出帳費用をなるべく多くかけるようにした。検見の費用は農民の負担であったので、実質的には少々の被害では願出ないように仕向けたのである。
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検見眷法図 |
太宰春台は『経済録』で検見法の幣害について「代官が毛見に行くとその所の農民は数日間奔走して道路の修理や宿所の掃除をなし、前日より種種の珍膳を調えて到来を待つ。当日は庄屋名主などが人馬や肩輿などを宰いて村境まで出迎る。宿舎に至ると種々の饗応をし、その上に進物を献上し歓楽を極める。手代はもとより召使に至るまでその身分に応じて金銀を贈る。そのためにかかる費用は計り知れないほどである。もし少しでも彼等の心に不満があれば、いろいろの難題を出して民を苦しめ、その上毛見にあたって下熟を上熟と云って免を高くする。もし饗応を盛にして進物を多くし従者まで賄を多くして満足を与えれば上熟をも下熟といって免を低くする。これによって里民は万事をさしおいて代官の喜ぶように計る。代官は毛見にゆくと多くの利益を得、従者までもあまたの金銀を取る。これは上の物を盗むというものである。毛見の時ばかりではない。平日でも民のもとから代官ならぴに小吏にまで賂まいないを贈ることおびただしい。それ故代官らはみな小禄であるがその富は大名にも等しく、手代などまでわずか23人を養うほどの俸給で十余人を養うばかりでなく巨万の金を貯えて、ついには与力や旗本衆の家を買い取って、華麗を極めるようになるのである。このように代官が私曲をなし、民が代官に賄賂を贈る状況は、自分が昔久しく田舎に住んで親しく見聞したことである。これ一に毛見から起ることで、民の痛み国の害というのはこのことである。定免であれば毎年の毛見も必要なく、民は決った通りに納めるので代官に賂を贈ることもなく使役されることもなく苦しみがない。それ故に少しは高免であっても、定免は民に利益がある。毛見がなければ代官をおく要もない。代官は口米というものがあって、多くの米を上より賜わる。代官をおかなければ口米を出すこともなく国家の利益である。今世の田租の法として定免に勝るものはない。」と述べている。幕府でも毛見から定免にし、また毛見にしたり度々変化しているということは農民の側においても大百姓と小百姓との間で利害の不一致があった為である。
いずれにせよ一村の石高を規準にして一村単位の税が定められる。それを村ごとに通達する。
これを年貢割付状または免状という。この割付状の末尾には村役人以下全百姓が集まって不公平のないように各自の負担額を定めるように記載してあるのが例である。
この土免定は村々にあったはずであるが、現存しているものは多くない。
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寛保三年石盛帳 |
『寛保3年(1743)7月25日村々知行所田畠坪付石盛帳扣』は六ヶ村で二百石の知行地に対するものであるが、和田村五ッ五分成、二宮村五ッ成、中角村三ッ成、押川村ニッ八分九厘一毛、平田村四ッ成、山北村三ッ四分一厘八毛八払で、この計算は次のようである。
| 六ヶ村惣地高百九十五石六斗五升 十一弐半給田不引 |
| 弐百石高地四石三斗五升不足有之候ヘバ所知らずの内ニ有、十一弐半給 |
| 田引除候得は残地弐石二斗五升引、四石三斗五升、惣高不足地とも二口合六石六斗二升七合五勺不足 |
| 田畠合六反壱畝八歩 地坪前々記和田村二宮村中角村三ヶ村ニ有、但土免米の外田畠前記書通 |
| 平田町戸内村の土免定の例をあげてみると次の通りである。 |
| 外二十石四斗七升七合 庄屋給 | 内八斗七合 亥免許地入 |
| 一地千七百九十九石七斗三升八合 無畝延 | 七百五十五石二升七合 田四ッ三歩五厘 |
| 三百四十九石四斗八升四合 荒 | 内一斗二升 亥免許地入 |
| 八石一斗八升 屋敷八ッ四分 | 五百七十一石一斗三升三合引分田二ッ六分五厘 |
| 一斗七升七合 畑二分 | 二石八斗二升三合 下畑 五分 |
| 八石三斗二升三合 田三ッ成 | 五石三斗八升六合 下畑 二分 |
| 一米 御免方扣 同村持地 | 一石一斗九升三合 上田二ッ四分 |
| 内四斗 今春 免立入 扣 | 一石一斗七升三合 下田一ッ四分 |
| 一斗二升 屋敷 四ッ分 | 一斗二升一合 クボ下地 九分 |
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土免定 |
右の通り今寅年より来る卯年まで二ヶ年土免きめ遣し候条貢物甲乙なき割合を以て納所せしむべく若し損毛などこれあるに於ては申し来るべし見直し遣わすべきものなり
天保十三寅年 青木忠蔵
森九郎兵衛
御代官
右村庄屋老百姓中
右のような形式で統一されておりまた免に於てもほぼ一定されているようである。屋敷について、「大抵小百姓は地五代、その余一町より上の作人は十代、二町より上の作人は二十代、その他の作人であっても屋敷高を増してはならない。免は八ッ四分成、これは古来よりの定である。若し屋敷構が右より広いときは上畠の貢物を取立てること、但屋敷の内に田があるときは田の年貢を取立てること」とあり、また「田の免について上畑は古法の通り三ッ六分、中畠はニッ四分、下畠は一ッニ分成とするが畠の屋敷の貢物は太米とすること」(田方検見分目の事)とあるが、これは寛文13年或は延宝2年のものであるけれどもこれよりも高い免はないようである。なおこれによると「検見のわけ目は大抵四分六にして六分を召置べきこと」とありこれは六公四民である。
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外浦村土免定の末尾 |
しかしこれには但書がついており「瘠地の百姓は生活が成り立ち難きにつき下田の所は年貢を免除してもよろしい」として次のように記されている。「

田高の平均一反につき一石五斗より以下である村へは六分の取米の内にて免三四歩を免除してもよいが、

一石五斗以上である村は免除する必要はない。」「一反について

四斗より内は、帳面に記さなくてもよろしい。但し四斗以上は帳面に記し

も田高に平均四斗より内であるときは免除すること。右検見分目のことは古来より三つわけにすることになっているが、それでは百姓成りたち難いので、御蔵入は前々より右の心持を以てかげんすること。しかし役人の考へで免除することはできないので、困窮の村は相談の上で相応にきめること」とあって、小百姓からの貢租の徴収に対しては多少の手心が加えうることになっているが、村高に割当られた年貢を間人に至るまで割当ることになっているところから実際の運用はどうであったろうか。
免が定められて、村の納入すべき額が示され、必ずその年の12月限り納入しなけれぱならなかった。名主、庄屋はそれぞれの貢納額を掛札にして翌年まで門前にかけて周知させねばならなかった。