宿毛市史【近世編‐農村の組織と生活‐租税】

税の種類

藩政時代の税の種類とその内容を知ることは、その時代の庶民の生活を知ることにつながると思われるので、ここにその主なるものをまとめて記すことにした。

 田 銀   明暦(1655)ころから徴収した。藩主の参勤または使者の往来に要する費用や、賦役を代銀納にしたもので本田一反につき銀六分一厘三毛であった。蔵入地は代官が取立、給地分は給人取立とあり、幡多郡分として銀五十四貫百三十五匁七分六厘である。その内田銀は五十三貫四百九十三匁八分八厘であった。六百四十一匁八分八厘は諸殺生銀であった。(嘉永6年覚書による)
 屋敷税(宅地税)  本田は一石につき八斗四升(八ツ四歩)、新田は四斗八升(四ツ八歩)であった。『御郡方御定目稿』に居屋敷のこととして「二町より上の作人は二十代、その余の作人たりとも屋敷高は増すべからず、免八ツ四歩成は古来よりの定なり、向後とも古法に従うべし、もし屋敷構広く候とも右の外は上畠の貢物を召しおくべし。但し構の内に田方があるときは田方の年貢を取るべし」とある。
 諸物成(小物成とも云い畑税)  村々より納入すべき藩主用の野菜類の代納銀のことで、畑一反につき銀一分八厘八毛八払の割、一石につき下畑一斗二升(免一ツニ分)、中畑は二斗四升(免ニツ四分)、上畑は三倍の三斗六升(免三ッ六分)であった。「はじめ山内氏へ各郡村から野菜類を上納して来る所を菜園場といい、今の菜園場横町の東側であったという。後には遠い在所から持ち出すと費用もかかりまた一時に多くの物が重なりなどするため代銀納になったという。今その場所に人家ができ菜園場というようになった。(『皆山集』)。
 地懸出米   本田物成米一石につき二升。文化年間から天保10年まで。享保12年の火災によって高知城焼失のため城普請費として出米を命じたのが初まりで、借上げの名儀で徴収したものである。
 催合米(二十歩一出米)  家中諸士の奉公料である。延宝元年(1673)に初まるともまた宝永年中(1704)ともいう。「その後二十歩一出米に仰せつけられ御奉公料、妻子料、御足米、往来扶持、食捨扶持等の類渡しつかはさる儀に御座候、享保年中御省略の節出米差止められ御奉公役は自力勤に仰せつけられ候儀もこれあり候ところ、又々以前の通リニ十歩一召上げられ御奉公料の類渡し遣はされ候事」(横川氏存寄書)とある。
 辛在家(柄在家)  納租の資格なく労力を以て代えるもの。寛文3年(1663)8月21日百姓訴抜書に「先規より田地一反につき春より三人役からざいけ御召遣の御定に、御座候ところ近年お雇の柄在家と仰せられ1ヶ年に二三度ずつ時の御かまいなく10日15日或は20日、遠き所より罷出相勤め申候」とある。
 運上銀(営業税もしくは売買税)  所得税に類した税目を広く運上銀といった。「宝永4年(1707)8月7日諸運上は向後正銀を以て召上げられ、郷中は先年の如く正銀遣し候。支配の通り運上仕る筈なリ」(「南路志』)とあり、営業税と考えられる。宝暦12年(1761)1月25日潮江村乙右衛門の上書に「御国中紺屋より先年染口運上銀召上げられ候様伝へ奉り承り候」とあるものは紺屋の営業税のことである。
 運賃米   年貢米の運賃で一石につき三合から七合を徴収した。「遠方にて拂候御貢物自力にては拂いがたきにつき、手寄り浦方へ役人受取りおき城下へ廻し候。右船賃に出し候米を運賃米と申候。所の遠近により運賃五合程も七合程もかかり申候」(『南路志」)とあり、川北文書には「御貢物運貸米十石三斗一升也、但御貢物正米払、六百八十七石三斗三升六合に掛る運賃米石につき一升五合充を以て此の如し、右運賃米は御貢物用方米へ割付取立申候」とある。
 口銀(国産方の取立てる消費税)  売買、移出入の時各津口で徴収したのである。
 職人役銀   諸職人の運上銀である。大工、左官、鍛治その他川役、殺生役などすべての職人から徴収した。
 芝銭   船の新造税である。帆一反につき銀四匁八厘、但し古板造りの場合は半額の二匁四厘であった。
 町切銀   「切銀は町屋敷売買の時、買主よリ町方へ出銀することは寛文9年(1669)よりはじまる」。(皆山集)
 茶口銭   「茶口銭は元禄5年(1692)よリ召しあげられ、長岡郡汗見川・立川・下川・大砂子・岩原の五ヶ所の茶夥しく出るにより」徴集することになったと『皆山集』にあるが「郷中諸懸物廉書」ではその他の場所からも産出したので、茶口銭はどこでも徴収されたものであろう。
 堀浚役銀(城下堀の出入船に課した)  二間屋形船出銀四匁、一間半屋形船二匁二分、一間屋形船二匁、大二匁、中丸めうし二匁五分、漁船、出買船、内海通行船は大六匁五分、小四匁、小舟一匁(但家中諸奉公人の舟は徴収せず)、廻船、市艇は浦戸入津、荷物積立毎に徴収、廻船は銀六匁、市艇は三匁、新川薪船は免税であった。
 水主足役銀   「野中伝右衛門殿御奉行の時、浦々水主足役銀を許され、魚口五分一を三分一になされ帆別と水主賃銀との内十分一、また屋敷年貢召上られるより先年の足役銀より水主に増し銀になり迷惑の由、寛文3年(1663)御政治改革の時7郡奉行訴へしことあり、かかれば古くよりあること知るべし」(皆山集)
 帆別銀   廻船に課するもので帆の枚数を基準とするのでこの名がある。帆一枚につき銀五分宛取り立て郡奉行証判帳に記し、一ヶ年限取縮、郡奉行銀米方へ上納する。
 竹銀   一荷のうち三分二を閏年ごとに供出させたのであるが、後年銀納とし、一荷について銀四分八毛を徴収した。明暦3年(1657)には一荷について七分は上リ、三分は種竹に下さることになった。
 江戸年季夫補助銀   「太守様御在国年は人数290人ばかり参勤年は人数480人ばかリ御用に候ところ、人数少なきにつき望みいで候様に仰せつけられ候得共、上より遣はされ候扶持米にては希望の者これなきにつき郷中へ割付1人に銀八十匁を増すこととし、6郡村々の地高へ割付け、参勤の年には銀三十八貫四百匁ばかり、在国年には銀二十二貫匁ばかりを郷中より徴収して江戸年季夫へ遣はさるるなり」(『郷中諸懸物廉書』)とあり、また文久元年の庄屋差出扣(『兼松文書』)には「江戸年季夫取扱ならびに幡多郡諸割付物地石改正そのほか時として御郡方に於て職外御用筋仰せつけられる」とあるので、これは庄屋の職外のことではあったようであるが、やはり庄屋が徴収したらしい。
 坐頭
普請夫坐頭米割当(有田家文書)
普請夫坐頭米割当(有田家文書)
瞽女銀   坐頭瞽女の郷中往来の費用として納めたもの。元文元年(1736)12月廃止したというが、その後も残っていたことは『兼松文書』に「坐頭瞽女補銀の事」とありまた『有田家文書』には「普請夫、坐頭米左の地へ割る事」とある。『郷中諸懸物廉書』には補銀として次のように書かれている。「但し町郷浦の瞽女坐頭、古来は送人馬渡し遣わされ村継を以て春秋両度郷中を相まわり施物をうけ来り候ところ天明8申年に御詮儀の上村々送人馬或は施物の入目高を本居にて渡され候。御国中束ねて御取立の上坐頭紫分一人に一ヶ年分銀百五十七匁三分四厘打ち掛一人に百四十四匁、初心一人に百三十匁六分六厘、瞽女一人に百二十六匁二分二厘御補として渡し遣わされ候ところ、文化13子年本田新田地石割仰せつけられ、都合一ヶ年分銀六十八貫三百目余御郡方へ御取立の上渡し方仰せつけられ候。」とあるように春秋2回施物をうけるために、藩内を旅行する瞽女坐頭がどのような状態であったかは、天明8年(1788)5月11日森芳材の目録によって知ることができる。「久喜村庄屋若藤重五右衛門申候は盲女坐頭上下仕り候儀当村など別て迷惑致し候前々は久喜より森村へ送候所、去年分に名野川百姓共御頼仕り候、盲女坐頭入込候儀は屋満ち候故名ノ川へ不参、大崎村まで送り申候、然ば久喜と大崎の中に川御座候、右川船ならでは渡しござなく候、久喜分には舟これなく候故大崎の舟借り申候。右舟貸一人前十八文より二十文までにて渡し申候。当村の地高は八十六石八斗二升二合の所にて家数七十家御座候。盲女坐頭一ヶ年三百ばかり参り候、そのうち大方は大崎へ通り申候。三百ぱかりは当村に一宿仕り候故なお以て迷惑仕り候。川止など御座候時分は九人も十人も泊り、川あき候まで居り候故何日も留る事御座候。泊らず通り候時は八文遣し申候由、泊り候時はまかない一人つけおき候、坐頭一人送夫一人出し申候ことに御座候、四分以上は□馬相渡し候故送夫二人入申候。」とあるのをみると、村方の負担はかなりのものであったと思われる。
 詰夫料(甲浦詰足軽小頭兼異国船打払手当詰夫料)  「異国船打払御手当御用御足軽小頭並に御足軽8人、1人に半役ずつを以て1日に詰夫5人、凡そ1ヶ年三百五十四日分、人役千七百七十人、1人役八銭六分五厘宛を以て1ヶ年分銀一貫二十四匁六分七厘、右詰夫料として天保2卯年より御詮儀の上、本田地石新田物成米掛に御割付仰せつけられ、年々御取立仰せつけらる。尤卯年より天保9戌年(1838)まで8ヶ年分御銀八貫百九十七匁余、甲浦御要用銀のうちを以御渡仰せつけおかれ翌亥年束て御取立仰せつけられ以後右の通リ」(『郷中諸懸物廉書』)とある。
 役銀  (諸士の普請国用に対する出銀、物成米四十石につき1人役、銀六分一塵二毛である。)「元和の頃既にあり、その時は御用材奥山にて御仕成の時、御米味噌塩など上げ、或は川流し陸持ち等の夫料を御家中へ課せられしと知らる。御普請所へはもと家来を出して夫役を勤めしなるが、ややもすれぱ喧嘩起るを以て正出夫をやめられて御役銀になる、その的年は詳ならず。正出夫は享保の比まではありしなり、又貞享元年甲子小林甚五左衛門御取立の身なれば何分御奉公いたしたくは候へども、近年病身となりしかじか御奉公役勤らず迷惑すとて、自ら請ひ出年々御役銀を上せしことあり、是による時は御役銀は御普請に限ることなし」(『皆山集』)「寛永三丙寅家中へ撫完料を課せられ迷惑せし由聞召され翌年丁卯完料出ざるものは1ヶ月に1人前銀子廿匁宛召置かれ材木役はさしおき、当年1ヶ月に1人前銀十八匁宛召上らるるという事もありしなり」とあり、役銀の定に「物成米四十石につき1人役なり、但1日の1人役は銀六分一厘二毛なり、正月16日より10月限なり」とある。
 用米   俵の両口(かがり)の旧法を片口とし造用米と称して米1俵につき3合を徴収したが、安政年間にて廃止す。(一説には片口に改めたのは安永2年9月佐々孫左衛門が参政の時、また造用米を廃したのは吉田元吉参政の時とも云う。)川北村御改正風土取縮指出帖によると、「御貢物米二百十一石六斗、但造用米立を以平俵相納申候、右かがり米二百十一石六斗にかかる造用米五石二斗八升四合、石につき二升五合を以て、尤百姓増米取渡仕り申さず候、(追書)但右造用米御貢物用方米へ割付取立申候」とある。
 仲用銀   『兼松文書』に「郷中仲用銀米の事」とあり『川北文書』にも「仲用銀惣縮の事」とある。その内容について『川北文書』には「仲用銀米取扱の儀入用の時々仲遣の者へ申つけ備入を以て相弁じおき毎年11月入詰、元利ともそれぞれ相縮、地下役、百姓惣代立ちあいの上割方仕り納所場において取立申候」とあり「仲用銀米は本田地石、新田御物成米へ割りつけ取立仕り候」となっており仲用銀融通いたし候者左の通りとあって名前を記されているところから見ると一種の金融機関であったようであるが、本田新田に割当てて徴収したところを見ると税とは云えないまでも強制的なもののようである。

年貫下札
土免定によって決定された村々の年貢の目録のことを「年貢下札」といった。「上より下さるる年貢の書付の意なるべし」(『地方凡例録』)とあり、庄屋の門前に貼りだされるものは掛札といった。掛札は役所で作ったものを村々へ配布したのであるが、それとは別に村々で作ったものがあったかどうかについては不明である。
『兼松文書』の「納所場の事」として「御貢物銀米、運賃米、諸御役場作式加治子米、新田庄屋給米、義倉出米、門役米、名本、老、惣組頭、地頭、惣代、御山番、水番、井関番、鶴番、烏追、小遣、納所、猪鹿防、郷手次、郷肝煎、番頭、小番、中村宿、小出牢番、渡守、御蔵許宿、下田詰夫、役料米、有永出米、紙筆墨料、年行司石掛」とあり、「右は別帳をもって取わけ地下人ども詮議の上納所相備、庄屋老惣組頭ども立会、相見をもって取立、皆済仕り納所帳写は銘々へ相渡しそれぞれ始末をとげ候事。但し百姓どものうち納所に備うべきものこれなき村々は老組頭立ちあい庄屋が直接取り立て合計の上本拂算用方仕り候」とある。前記の各項目をどの村でも全部納めたものではなく、村によっては関係しないものもあったのである。
納所場は各村々にあったものと思われるがそれがどこであったかは不明である。また兼松文書の各項目についての具体的な数字は各村々によって相違したものと考えられるが、いま芳奈村の年貢下札を示せば次のとおりである。
    安政3辰年(1856)御貢物下札
                     老   喜代次
        11月         納所  健  次
        宇三平殿
地十二石五斗    〆 六石六斗三升四合二勺  
1. 米六石四斗九升八合八勺 免米(貢物)   右之拂  
1. 同一斗二升三合八勺 運賃 1. 米六斗五升三合三勺 下り米(作人へ渡す分)
1. 同一升一合六勺 新田貢物 1. 同六石也 御蔵納
  名入   1. 同八升九合三勺 戸割
1. 同二斗也 和太次 1. 同二升二合 坂ノ下□番
1. 同八合 大庄屋  〆 八斗三升五合  
 〆 六石八斗五升五合三勺   1. 同二升六合 □番米
 〆 二斗二升五合一勺   1. 同二升 手□
  外ニ四升七合三勺    〆 八斗八升一合  
   〆後算用ニ入     右之拂  
1. 米九升六合五勺 田銀 1. 米一斗三合六勺 引米
1. 同二斗五升七合五勺 諸給米 1. 同五升七合一勺 秋役
1. 同一升四合四勺 坂ノ下割 1. 同二斗也 松七(宇三平の祖父の名)
1. 同□升七合八勺 坐頭米 1. 同二斗七升二合四勺 正米□
1. 同一升七合五勺 地引給 1. 同四升 □番□
1. 同一斗八升三合三勺 中村番 1. 同二斗七合九勺 地蔵納
1. 同九升九合三勺 有岡番  〆 八斗八升一合  
1. 同一升九合四勺 去午追割       皆済 極月十三日  

    文久2戌年(1862)諸貢物下札
                     老   熊次
        11月         納所  時太郎
        百姓宇三平殿
            百姓宇三平殿     籾四升四合三勺
地十五石也   1. 同二斗五升 喜蔵
1. 米七石三斗五升二合九勺 本田貢物 1. 同一斗 音次
  内六石九斗七升六合五勺 田方米 1. 同七合 大庄屋
1. 同一升二合 新田貢物 1. 同一升一合二勺 上和田
  内四合 田方米 1. 同一升六合 損田引
 〆 米七石三斗六升四合九勺    〆 六石四斗一升七勺  
  内五石五斗八升四合四勺 八歩米 1. 太米三升 門役戻り
1. 吉米一斗三升九合六勺 運受米  〆 一石一斗二升  
1. 同二升五合八勺 義倉米   吉米七斗三升五合二勺  
1. 太米四勺 庄屋給    代銀 百十匁五分四厘  
1. 同三升 門役米   太米三斗八升四合八勺  
 〆 米七石五斗六升七勺      代銀 五十八匁八分七厘  
  内七石一斗四升五合九勺 吉米  〆 百七十四匁二分七厘  
    四斗一升四合八勺 太米   内 二百五十一匁二分 売米
      右之拂         代吉米一石六斗  
1. 吉米六石 御蔵納 差引 残 〆七十六匁九分三厘 過上□
1. 同二升六合五勺 籾拂       内 七十二匁五分  
          四分三厘        
  十二月十三日諸給□入済      

この文書の中に吉米、太米があげられているが、現在我々の食ぺている米が吉米で、太米は赤米といわれたもので、多収穫ではあったが味が悪かったので次第に作らなくなり今では作られていない。糯米もちこめのことはどこにも出て来ないが、これは年貢の対象にならなかったものであろう。吉米についても早稲、中稲、晩稲また陸稲などその種類は多様であったことはもちろんである。
貢物下札の支出分(諸給米)の各項について簡単に説明しておこう。しかし時代により変遷があり、内容に変化があったりすることもあり、この文書が手扣へで判読できない箇所もあるので、誤りがあるかも知れない。なお「税の種類」の項を参照せられたい。
 貢物--年貢即ち税金のこと、本田、新田により免に相違があった。
 御蔵入--藩の倉庫へ収納するもの、地蔵納も同じものであろう。
 田銀--田役夫としての出銀
 坐頭米--坐頭鋼瞽女の送夫料
 地引給--庄屋給として差引く分か
 中村番--番人給か、有岡番、坂下番も同じ
 去年追割--前年度の追加分
 引米--雑費として差引分
 秋役--収穫の夫役をさすものか、夏役というものもあったらしい。
 田方米--水田収穫米に関するもの、畑は畑方といった。
 損田引--風水害、虫害等により損害分を差引くこと
 運賃米--年貢米を納所まで運ぶ費用、運受米も同義であろう。
 義倉米--凶年に備えて平時附加税的に徴収した。その米を貯蔵するのを義倉と云った。古来からの制度であったが江戸時代にも各藩で設けていた。
 八歩米--兼松文書に「八歩正米の儀は大積りをもつて百姓共へ割賦仕り□□仕分は時々摺仕成し米拵、尚また繩俵に至るまで入念に仕なし致させ日取をもって御蔵もとへ着拂御見分をうけ御蔵納に相なる分御通付仰せつけられ、10月中皆納致させ御切手出候事、附たり年により損毛仕り米品よろしからざるときは御蔵拂□取申さず、候はば御定月中に皆納覚束なく月のべ願い奉り御聞届相成り候事も御座候」とあるに当るものであろう。
 門役米--安芸郡川北文書には次のように記されている。「十石六斗二升、門役三百五十六軒、尤も高三百六十一軒のうち村の地下役ならびに困窮の者をさし除き百姓一軒につき三升宛、間人一軒につき二升宛取り立仕りその他浦人ども郷分に土地を持ち候者は一軒につき三升宛取立左の如し。
  九石五斗七升    百姓三百十九軒
  一斗八升      間人九軒
  八斗七升      浦人二十八軒
  なお兼松文書には「門役米」の項はあるがその説明はない。

年貢納入
年貢(租税)は田畑にかける本年貢が根幹をなすものであって、田より畑が低率であるのが通例であり田租は米、畑租は大豆のところもあったが、畑租だけは金納、あるいは田畑あわせて金納の所もあった。徳川幕府では元和元年(1615)7月、年貢米は一俵につき三斗七升、口米こぽれ米ともに一升ずつ納めること、貨幣納であれぱ百文につき三文の口銭を納めることとした。このことを幕領ならぴに私領の百姓へも触れるように命じたのであった。正保元年(1644)には関東地方は三斗七升一俵について口米一升、口銭は永百文につき三文、上方では一石につき三升宛の定法を今後も守るように通達している。
「往古は延米と号して員数を定めてなかった。斗桝に山盛りにして納めたので三斗五升といっても実際には五斗ほどにもなった。その後山盛りを斗掻で中ほどから掻き落しなどして納めた。それを元和2年に百姓お救いのために一俵を三斗五升と定め、二升の延米を加へて三斗七升入りで蔵納めになった」(『地方落穂集』)この場合三斗五升を本石と云い、三斗七升を計立(はかりだて)と云う。尤も本石は三斗五升と一定していたわけではなく四斗とか三斗六升のこともあった。余分の二升のことを延米または出目米というが、出目米は延米とは別に徴することもあった。計立と云っても余分に入れているのに尚口米一舛を加えたのである。
元和の令によると、一俵三斗七升につき口米一升は私領にも及ぶものとされている。口米は元来は雑多な附加税であったはずであるが、やがてその他に欠米、込米などの税が加えられることになった。そのために三斗五升の俵が四斗俵になリ、租率が四割、五割であると云っても実際にはそれ以上の高率になったのである。三斗五升一俵に対して欠米二升、口米一升、延米三升合計四斗一升の外に、こぽれ米、検査の時の差し米を加えなければならなかった。


年貢米取立図
年貢米取立図

収穫時から年貢皆済までは米の移動は禁止され、個人間の貸借の返済も許されなかった。また商人の出入も禁止されたのである。備中(岡山)の新見藩では春になって俵が崩れることがあると過料を徴収し、不足米が一合でもあると過料米一升、籾が一合の中に三粒あると同じく一升、四粒あると一升五合、青米、赤米、折れ米等があっても同様であったという。

桝様の図
桝様の図

貢米の検査については各地各様であったが、一村が納入したもののうちに二俵なり三俵なりを庄屋組頭等の村役が立ちあいの上で桝取が量るのである。
その中から五合また一升を抜いて役得とした。一升なり五合の不足があれぱ、全体の俵に対してその不足分を徴収したのである。桝ごとにトカキを使って五粒の米がこぽれれぱよいことになっていた。従って桝取りは村全体に大きく影響する責任者であったから、御日待をして無難を祈ったのである。
貢米検査の差し米は検査役人の役得となった。いづれも大きな差しを用いたので、一藩での合計が数千石にも達したという。収納の時の落散米は、下代蔵役の役得であったから、その役の交代には譲渡銀がついてまわることになったという。

年貢の納入ができない者は悲惨なめにあった。皆済まで庄屋またはそれに代るべき者を人質としたところもあり、村役が保証すれば放免されたが、さもなけれぱ手錠をかけて監禁した。有米を調べて皆済し得る者には皆済させ、できない時には家族を人質とし、あるいはこれを売って皆済させた。年貢未進となれぱ皆済は不可能であった。その結果は欠け落ちかまたは逃散せざるを得なくなるのであった。
「12月初めすこし用があって、わしも下も方へ行ったが、誠に目もあてられぬ事にあったぞ。小百姓はいづれも御年貢がたらずして牛馬家財を売り、もとより物も残らぬように払うて上納してもたらずして、借りかへて納めんとすれども貸す人はなし、とやかく延引すれば一々会所に呼出して、しばりからげして責むれども、もとより出来ぬ物なれぱ致すべきようもなし、しぱりからげにあいながら、才覚に参る事もならずして、なお延引すれば、日々しめかたは手痛くなりて、どうも堪忍ならずして、二三日の中に急度相納めますと偽りて、いましめを逃れ、途中にて淵川に身を投じて死ぬるもあり、首をくくりて死ぬるもあり、又宿元に帰りて腹を切って死ぬるもあり、それはそれは言語に述られぬ様子にて、死なぬものというても、むごい目におふて、29日の晩までも事がしづまらずにあったそうなが、その後どうなったものやら」
「村役人衆は役料を上納に立て、外にも何やかやにて上納を立て、自分の所にて作りたるものは大かた取落しになる故に、上納に世話なしにてよけれども、むごいものは小百姓ぢや、上納時になれば只払へ払へというて、延引するとしばりからめるの、やれ籠に入れるのというて責めせたぎに逢ふ。年中寒さも暑さもいとわず、星の明りより星の明りまで出精するが、夏は別して忙しうして、時によっては夜も眠らずに働いて、昼は草木もしおるるほどに日照りの強いほどいそがしさは強し、ぢいもばばもかゝ子も子供も、残らず口よりなまぐさき息の出るように毎日々々、精出しても上納時になれば、毎年々々上納米が足らずして、借り求めて納めるやら、薪を切り売して出すやら、漸々して上納を仕舞ふても、冬の寒夜にも綿入一つ着ず、更にむしろ、こももかぶられずして、そのくるしさ推量して下され。わしぱかりにもなし、この村にもある事ぢや。しかしわしどもは若いきにて見んごと寒さもこらゆるが、老人や子供がこらゆるのがさてもむごうして見られぬ事ぢや。きつい寒夜には、こも、むしろをかぶらしても眠らずに、夜半に起きて火をたいてあたる事は兼ねてこなた衆もしっての通りぢや。」(『近世農民生活史』)
入牢などになると親類縁者5人組などが所々方々から借米して未進を納めれば釈放されるが、翌年には借米と利米があり益々困窮を加え、没落する運命である。妻子を年季奉公に出し家財を売り、自分も奉公に出る、これを潰れ百姓という。田畑は領主に返還する。これを上り地といった。上り地は村中が耕作して年貢を納めねばならぬ。潰れ百姓は村方で立てかへた米と一切の借りを完済しなければ元の百姓には戻れないのである。
潰れ百姓の家財を処分した例をあげてみたい。当時の百姓のみじめな生活を知ることができるように思う。享保19年(1734)に越前国南条郡糠浦の百姓が前年の年貢米未進の結果「いろいろ御詮議の上散田追放仰せつけられ則ち家財召し上げられ入札にて御払、代銀の儀は御役銀の内へ御取入れ」になった。その処分財産は「家一1軒(但し二間四方掘立)古戸1本、古障子1丁、古四升鍋1つ、古口鍋1つ、古味噌桶1つ、古上段(但仏具なし)、古鍬1丁、古行燈1つ、古箕1つ、古箸5つ、古食櫃1つ、古一升ます1つ、茶水がめ1つ、古とおし1つ、古すいのう1つ、小便桶1つ、たな板1敷、古土桶1つ、古莚5枚、しめて21色、この代銀六匁九分である。」(『近世農民生活史』)これは当時の農民生活の状態を示すものであるが、とにかく最低とはいえ高持百姓であり、この下に水呑百姓があり名子、被官などがあったのである。
このような未進のための潰れ百姓を防ぐために五人組、親類、村中へ連帯責任を負わせることになっていたのである。津藩では明暦3年(1657)に未進百姓の稲刈の時には庄屋、組頭、五人組が出てまづ年貢米分の稲束を取除いて年貢米だけは確保するよう申し渡した。寛永20年(1643)の令では百姓が首くくり自害などする時は、親類親子兄弟ならびに庄屋組頭を火あぶりにする。飢える者があれば村中として養い、乞食を1人でも他国へ出してはならない。餓死者があれぱ庄屋組頭を処罰すると布達している。いかに農民に対する強圧政策がとられていたかがわかると思う。その半面農民の貧窮ぶリもわかるであろう。