普請夫とは強制的に課せられる労役で、貢物米とならんで農民の重い負担であった。普請夫は田役の別称もあり、明暦元年(1655)の春に創始された制度で田畑にかかるものであった。一町に30人の割合で代官役に徴集され、普請の労役に服することになっていた。
| 送 |
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宮部左近指出 |
夫 家老以下の役人の往来に出役する賦役で、組合村地高割を以て取りきり出すものを小送りと云い、七郡地高へ割つけるのを大送りと云う。1人扶持を出して使用するものを賃送りと云った。馬1匹は一里につき賃銀五分、送夫1人一里につき三分五厘で割増しの法がある。駕籠夫(本駕籠6人、軽駕寵4人、草器駕籠2人)、伝馬、人足、賄夫などであった。「慶安元年の時分までは送番所へ送夫10人、馬2、3疋宛、年中積1軒につき29人程。寛文元年2年時分には番所へ1日20人馬4疋程宛相詰め、詰夫を越し先打来候へば送下の村は加夫を出し相詰め1日入用24、5人、ならして今年中積り上げ1軒49人余宛掛る。寛文3年御触状を以て送番所に送夫5人、馬一疋あて相詰め、番所の者送行払いたるその跡へ参候分は、右送り夫戻り次第に送り候へと仰せつけられ候事(『田地雑記』)とあり、時により詰夫などに変化があった。天明8年(1788)の森勘左衛門の『西巡日録』によると「送夫は無賃の由、地役という」とあるが、安政4年(1857)の「安芸郡川北村風土取締指出」によると「送夫二千九百二十九人五歩但し番所詰夫諸役人以下御荷物送夫3ヶ年ならし」とあり、なお「番下の村々送夫過不足について年々11月送番頭において算用いたし、差引日割をもって出夫仕り過不足のないよう仕り申候。尤百姓の過不足はそれぞれ地下においてその年11月に過不足を差引の上、納所場にて取りつかわし相すみ申候」とあって、村人の負担を知ることができる。なお送夫を要するときは、奉行所へ願出ることが必要であった。延享4年(1747)の山田村の神主の「神社改差出帳』から出て来た送夫の指出は8月22日とあるだけで年不詳であるが、「伝馬1匹、送夫2人、右は従前の通り郡中村々へ釆配のために出張するから右の送人馬を渡して下さるように」と云うもので、神主宮部左近から郡奉行所へ差出し、奉行所から幡多郡中の村々の庄屋宛に「表書の人馬を出すべきである」と云う通達が出されているのである。また天保15辰年(1844)8月に沖島の三浦助左衛門の奉行所への次のような差出しがある。「一、伝馬1疋、送夫5人、右は私儀御用について此の度出府仕り罷帰り申につき、先例の通り伝馬、送夫相わたり候様、仰せつけらるべく且病気につき伝馬、籠夫に立用仰せつけらるべく候」(『三浦家文書』)とある。これによって奉行所から番所へ通知されたものであろう。 |
| 九 | 歩役 「九歩役とは各々三人役の田役召しつかい右三人役にて不足に相成候時は、石に九歩の増役相応召しつかい申候。御郡普請の時は、地盤出役の差外にかかわらず石に九歩役を掛け右御普請所へ召しつかい申候」(『秘笈録』)前記「享保4年幡多郡村々田役御普請所願」に福良村・伊与野村・石原村ともに九歩増役が記載されている。 |
| 無 | 扶持夫 「新田役も九歩役も皆無扶持夫にて御座候へども単に無扶持夫と相唱候は、北山御道筋へ召つかい候。右無扶持夫は森・本山・豊永・上倉・戸山・亀岩・宍崎7ヶ村より十石に1人宛りを以て相勤申候。右子細は右村々受取の道を御手向にて御仕成有之候につき つかい申候。」(『秘笈録』) |
| 道 | 行夫 「道行夫と申すは人夫の往来扶持にて御座候、三里半に不足候へは道行夫遣わさず候、右仔細は1日に七里踏の御作法にて二里半にて候へば片道半役、往来1日合せて1日分の飯料相渡し申候。飯米は1人にて五合宛に御座候」(『秘笈録』) |
| 新 | 田夫 「新田夫と申すは御普請所の堤内に御本田相まじり有之候。新田より右堤御普請有之節は一反に3人役宛出夫仕り候。右堤切れいたみまで右の通り御普請には出夫仕らず」(『秘笈録』) |
| 御 | 普請夫(土木、建築等の出夫) 「御普請破損の儀毎年10月御見分有之、御積夫高を以て本田へ御割付出夫1人に飯米一升宛つかわされ御召しつかい、勤不足仕り候時に1人役銀八分づつ夫料銀上納仕候。文政5年頃水難打続き、本田諸役掛り増し御詮議の上新田物成懸りを以て御差加へ御割付に相成り、正夫は御差除、夫料銀立にて銀八分宛上納仕り候。本田掛りの村方勤過不足のならし地下方において指引仕り、勤夫1人に五匁内外取遣し仕候」「御普請夫高1ヶ年分十六万九千五百四人七歩、但右夫高近年5ヶ年ならしと承候へども、去寅年分今卯年は御普請所大破につき夫高余計相掛り申由に御座候」「右夫高の飯米千七百三十五石九斗九升七合と承置候。但御国中御普請所のうち幡多郡並に佐川差除き爾来1ヶ年分御引受米高八百四十五石二斗のところ、年々出水破損所おびただしく引受米にて不足仕り、御渡の加に相成分とも去る巳年酉年まで御入目高八千六百七十九石八升四合八勺、5ヶ年にならし1ヶ年分右の通り、尤年々出水等の模様により増減これあり、就中去今は洪水度々にて御普請所大破、御米入増と承り及び申候」(『郷中御懸物廉書』) |
| 望 | 日雇 「望日雇御割付のこと。御家中町直し川口並に湊凌御普請を初め諸所御臨時場所へ御召仕1人に飯米一升五合つかはされ、本田地石、新田物成米掛を以て御割付に相成り候へども、遠在より出夫仕候ては費用の筋も有之、もよりの村々へ御割付1人役賃銀として一匁二分宛、出夫仕候村々を差除き出夫仕らざる村方へ御割付にて御取立となり出夫村へ御渡しに相なるなり。しかれども右賃銀飯米にては出夫の者迷惑仕につきその村において1人役三匁より四匁位の足し銀仕りつかわし申候。」(『郷中諸懸物廉書』) |