宿毛市史【近世編-農村の組織と生活‐租税】

村方費用

庄屋以下村々の役人の費用は百姓にかかるものであり租税の外の負担であるが、これは村々によって相違すると考えられる。村の地高や人口の多少によって負担に差はあるがどのようなものがあったかについての記録は多く見当らないので安芸郡川北文書によってみると次の通りである。このほかに冠婚葬祭その他の費用は当然のことであった。
 庄屋給その他  大庄屋及び庄屋以下地下役その他の給米については田地の広狭等によって差があったと思われるが、具体的な数字によって説明する資料がない。従って参考のため安芸郡の『川北文書』によると、「庄屋給割方の儀は7月より6月まで1ヶ年と相立双方勤日日割を以て割方仕申候」とあるので1ヶ年の勤務日数によって計算したものと考えられる。

  給米三十七石三斗九升四合四勺 川北村庄屋仙頭勘八
    但去ル嘉永七寅年指出の通且右勘八御目見仕不申候
     追書  
       十八石五斗三升六合四勺 本田給
       六石九斗三升七合六勺 新田給
       六升一合四勺 船頭給上り知給
       二斗一升九合 新田知行給
       十一石六斗四升 三人役米
  給米三石二斗  川北村ノ内本村老竹蔵、久保田、松田島、江川各老同額
    但右の者共相続仕不申地下願ニ而御座候
     (追書)諸給料本田地石へ割付申候
  五人組頭二十一人  
    但無給且村立組頭無御座候  
  給料七石六斗三升四合八勺 給知庄屋但帯刀御免  貞吉
  同  三石八斗九升五合一勺 川北村本村納所  芳太郎
  同  二石四斗九合九勺 同村松田島納所兼勤老  馬之助
  同  一石八斗三升三合五勺 同村久保田納所兼勤老  儀助
  同  一石八斗二升九合五勺 同村江川納所兼勤老名目勤  林平
  同  一石八斗八升五合三勺 給知納所給知庄屋兼勤  貞古
  給米二石也 本村小使  慶作
  同  一石八斗 久保田小使  忠吾
  同  一石八斗 松田島小使  良助
  同  一石八斗 江川小使  藤左衛門
  地四十九代三歩才 給地小使  庄兵衛
    但給地百姓より相備御貢物諸掛ハ小使より相立申候
  米一石四斗 右同人
    但右小使庄屋老自用の為相弁じ候儀も御座候、尤相雇候時ハ相応の賃銭相渡申候
一、 給米六斗九升四合 本村升取  吉蔵
一、 同  三斗四升二合 久保田同  縫平
一、 同  三斗八升八合 松田島   良助
一、 同  二斗七升八合 江川     藤左衛門
一、 同  二斗 伊尾木村高御山番  惣作
     但地下より相備申候  
    以下二斗五升、一斗六升四合、三升の三名の名がある。
一、 給米一石二斗七升三合 安芸送番頭  彦之丞
一、 米  三斗三升三合三勺 但紙筆墨料
一、 同  八升六合四勺 但送夫の者共年中塩茶代と送番頭へ補い遣す分
一、 同  四斗八升 但安喜東西町遣の御用状持夫番頭手人を以て持遣したき段申出、地中詮儀の上町
遣夫引き除き右の通賃米立を以て番頭先年より相勤居申候
一、 同  三升三合三勺 但奈比賀村へ立赤松状持夫
 〆 米二石二斗六合也  
一、 給米二斗八升六合也 安芸送番頭  彦
一、 同  一升九合也 但送夫の者年中塩茶代として送番頭へ補遣す分
一、 同  八升三合二勺 但紙筆墨料
一、 同  六合五勺 但奈比賀村へ立赤松状持夫
 〆 米三斗九升四合七勺  
  (同じ送番頭への給米であるが、年代に差があるものかなぜ開きができたかについては不明である。これらは「本田地石へ割付取立申候」とある。)
  一、給米七斗二升八合三勺 郷肝  喜平
  一、米一斗七升一合七勺 諸御切手仕出し取扱料
  右に記す外の諸給米左の通り  
  一、米壱石二斗也 番肝煎給、五人組頭  安蔵、周平、仁八、林蔵
  一、同六斗 仲銀遣給、老  竹蔵
  一、同八斗五升也 由良谷山底地明番給  重蔵
  一、同六斗四升四合也 奈半利川渡給  菊平
  一、同六斗四升三合也 安喜両川右同  銀平
  一、同四升也 矢形谷中山番給  藤作
  一、同二升 荒神社掃除給  喜蔵
  一、同二升 薬師堂右同  観音寺
  一、同三升 清水寺会式詰方給  忠平
  一、同一升 井番給  千代作
  一、同一升 井山番給  千代作  礼作
  一、同二升 野神掃除給  升平
  一、同三升 荒神社右同  喜蔵
  一、同四升 ヒザ本井番給  次左衛門
  一、同三升 胴木井流番給  平七
  一、同二升 中樋右同  同人
  一、同二斗 川番給  林蔵
  一、同一升 山神掃除給  喜蔵
と記されている。なおこれらの1日の賃銀については「組頭共御用並に地下用出役賃は1日米二升」とあり、また「庄屋御用につき出府田野御役場へ出勤共止宿、宿払は地下より相備申候、但去辰年出府田野行宿払百八十八匁、人足宿払とも。尤一夜の宿賃二匁五分」とある。「老組頭御用ニ付出府田野御役場へ出勤庄屋人足賃共八銭四百五匁也1日に四匁宛相渡申候」(川北文書による)とあり、村方の費用もかなりの負担であったことがわかるであろう。