宿毛市史【近世編‐農村の組織と生活‐開発】
有田善三郎の上荒瀬工事
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上荒瀬工事絵図面 |
宿毛郷和田村庄屋有田善三郎は父友七が19年間も庄屋を勤めて文化10年(1813)死去したので16才で相続して庄屋になった。当時和田の井溝は上荒瀬堰から水を取るようになっていたが、井溝の方が高いので156日も照りつづくと水がのらなくなった。また堰が年々出水の度毎に破損して百姓一同が田役普請に苦労するのであった。「そのため、小田方関より水を取り受けたく親友七勤役の節も願い出たけれども公儀御役人や宿毛御役人の御積などもあって許可にならなかった。此の度の大破(文政9年1826)について修理の見込もつかず百姓共にも修復の見込もなく困窮したので、積書にて公儀へ5ヶ年の御割払で工事の願書を差出したのであるが、宿毛御役人所では詮議が定まらなかった。そこで再ぴ文政10亥年6月別紙を以て見積書を差出し人夫賃として御米拝借を願出たが、今度も詮議もせられなかった。自分が考え出したことであるので、是非とも成就したいとの考えであった。3ヶ年にて出来る見積りであったから御役人の詮議を待たず9月3日定夫を自分で雇入れて仕事に取掛ったのである。日々其のできを見るに見積りの通り出来ると思われると共に追々米の借入れも出来、百姓一同に出夫の相談をしたけれども百姓共も早速返答がなかった。若し百姓の出夫がなけれぱ人夫を雇入れる考えであると組頭へ話したところ一同出夫をすると申し出て漸く協議がまとまって出夫することになった。則ち帳面にある通りである。右の場所は文政11子年正月9日工事を終り御役人共が見分し、御上より五升樽一荷下され庄屋老初め一同有りがたき仕合である。」(有田家文書より)と有田善三郎が書き残している。
右文中にある「文政10亥年6月別紙を以て見積書差出し」たとあるものは「右絵図を以て中村御郡方差出を以て願出申候」とある書面のことと思われるが、「此井関10年より田役御普請所にて御座候ところ年々肝要の場合に破損仕り百姓一同難渋に及び候により此のたぴ銀米借用を以て新溝仕成し方仕りたく願ひ奉り候。旦っ寛政の頃願ひ候ところ御仕成に相成らず右の新溝でき候へぱ上荒瀬堰は是までは御積夫御口を以て永々御居夫に願ひ上げ奉り候」とあり「上荒瀬関田役御普請御積夫」として、
一、人夫 千五百七十七人 文政8年
一、人夫 二千五百四十八人七歩 文政9年
一、人夫 千五百八十四人八歩 文政10年
一、人夫 二千九十三人八歩 文政11年
〆人夫七千八百三人八歩
但4ヶ年ならしを以1ヶ年につき人夫千九百五十四人五歩なり
となっている。右のうち文政11年の人夫積は工事が終了しているので関係のないものかも知れない。あるいは井関をこのままにすればこれだけかかるという数字であるかとも思うが、ともかく右のようになっている。
帳面に記載してあるという工事の記録は次のとおりである。
小田方井関より上荒瀬堤井流の裏まで
一、惣溝長五百二十間
右の内新溝三百間
一、難場百十間切抜き
| | 但右の内下より六十間の所はかね石出る、此の間難石あり、人夫150人役一ッの石に相懸り申候、桁行五間梁行弐間の古家有之候を買受、日数2日焼き申候、然にいもがらよろしくと申事云い伝へに付右いもがらをたき又いたづりの木をたきいろいろと致し申候ところ一向らちあき申さず酢がよろしくと申事にて酢をかけ候ところ至ってよろしく候。酢五升位にて相済み候、なお先々の心得として記しおくなり |
とあり、これに従事した人夫については次のとおりである。
惣人夫五千五百九十七人五分八厘也 |
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内人夫三百七十人 |
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但宿毛御役人より寸志夫を以仰せつけられ候もの左に相記申候 |
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七十七人 |
宿毛本村 |
但老亀八、友助 |
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五十五人 |
二宮村 |
但庄屋今岡助作是は山田村出住右村庄屋相蒙罷越申候老タコヲシ岩丞八幡下左吉両人なり |
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二十九人 |
中角村 |
但庄屋藤八、老勇吉 |
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三人 |
呼崎村 |
但庄屋善次衛門 |
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十七人 |
山北村 |
但庄屋与平次、老熊助 |
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二十八人 |
押川村 |
但庄屋弁吾、老常右衛門 |
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八人 |
野地村 |
但庄屋市郎左衛門、老久衛門 |
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二十人 |
錦村 |
但庄屋十三郎、老平助 |
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十七人 |
大深浦村 |
但庄屋島崎恵右衛門、老新吉 |
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二十五人 |
薄ス木村 |
但庄屋寿助、老加波村久右衛門 |
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九人 |
木津村 |
但庄屋松沢藤蔵、老銀蔵 |
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六十人 |
平田黒川村 |
但庄屋要平、老 |
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十四人 |
山田村 |
但庄屋治蔵、老 |
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八人 |
中山村 |
但庄屋松作、老 |
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〆三百七十人 |
〆 |
人夫五千二百二十七人五分八厘也 |
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但百姓間人住居の面々共口仕候、飯米六升払を以て五十二石二斗七升五合八勺、文政十亥年九月三日より初め子年四月九日までに成就 |
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御米拝借覚 |
合吉米四十九石也 |
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但此米年数の割払を願い候ところ御詮議申候御儀差おく様仰せつけられ候につき上納仕らず候 |
とあって、借米は五十二石余とあるが、実際はこの四十九石が藩より借りたものであったのであろう。これに対しては「差おく」と云うことになったのである。
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有田善三郎記念碑 |
文政11年9月22日には呼出を受けた。善三郎は、「麻上下にて会所にまかり出、上荒瀬関は毎度出水の度に破損、田役場所として百姓ども迷惑いたしたるところ地中のために、新溝が堅固に出来た上は御万悦に思召され名字帯刀御免、老寿吉も同様で御土居出入御免とし1ヶ年に限り米五斗遣し申候。老新左衛門も右同断の事」であった。
なお「定夫、克蔵、弥平、伝助」の3人と出精者として「用助、安左衛門、藤吉、儀平、久米蔵、直六」も「同日御呼出しを以て青銅三百文仰せつけられ候」「百姓間人に至るまで庄屋宅に召寄せられ一同出精のわけを以て御褒詞仰せつけられ候」(有田家文書)とあって出精した者に対してはそれぞれ褒賞が与えられた。
文政12丑年2月公儀差出願覚としての差出しがある。
一、新井水筋長三百間、人夫千九百五十四人五歩
但上荒瀬関御積夫、文政8酉年より去子年まで4ヶ年のならしを以てかくの如し
上荒瀬谷口 長八間水越箱井流
但上荒瀬関古井溝成替りを以て以後御普請所に仰せつけられたく願奉り候
同流下も 井溝山1ヶ所長二間戸前とも
但此井流以後新規田役御普請御積立場所に仰せつけられたく願奉り候
右は私ども支配の田役御普請所の上荒瀬関の替りを以て小田方より水取受を思ひ付先達て新溝出来仕り候により右上荒瀬関の田役夫4ヶ年のならしを以右の井筋御居夫に願奉り候ところ御聞届け仰せつけられ有難く存じ奉り候。右間数のうち底井溝右の2ヶ所を加えた右井水筋一切の御居夫を以て以後作配方仕るべく候」とあって、その新井溝の田役についても解決して一切が終った。
しかし有田善三郎の晩年は恵まれなかったようであるが、現在その恩恵を蒙ることまことに大なるものがあるので、和田村青年会が、その功績を称え感謝の心をこめた頌徳碑が井溝のほとりに建てられている。