宿毛市史【近世編‐漁村の組織と生活‐浦奉行と分一役】

浦奉行

土佐の海岸線は浦戸湾を中心にして東を上灘(東灘)、西を下灘(西灘)といった。この海岸線は西に自然漁港が多く、寛政年間の東西の状況では上灘の地引網260、下灘の地引網84、鰹船は上灘34、下灘124であった。その港は81浦(土佐藩の法制)を数へ東西の浦奉行の管下におかれ、その下に浦方地下役である庄屋、老、組頭がいて、藩直属の分一役と共に半農半漁の浦人の支配に当った。
浦奉行は上、下灘各1名で、留書役や下役がいた。「浦々役人はその浦人の産業を考え、或は船の運漕、山手の働き等を以て渡世の者はその業を励み、釣網等の漁人は油断なく沖立ちを申しつけ妻子は勿論女の業をいとなみその外所々便に従い男女とも毎日業を励みなりわいの道怠ることなくば飢寒の患い少なく妻子を育くむべきものなり。役人庄屋常にこの旨を存じそれぞれの職務を励ましむベきものなり」(浦中定)とあり、なお幕府の政令に準じて異国船の監視、海難に対する保護救済を規定し、また浦人の生活風俗等に対する規制や困窮者の救済に留意すべきことなどを規定しているが、「公事訴訟」については庄屋や年寄などの手にあわないものは浦奉行が裁判するが、事態が重大性のあるもの又は原告が裁決に不服の場合は奉行所に訴え出る道も開かれていた。