宿毛市史【近世編-漁村の組織と生活-浦人の生活】

浦人の生活

漁業が独立して生業となったのはいつの時代であったかは明らかではないが、農業と共に自家用食料としての生産は人々の生活に欠くべからざるものであった。長宗我部百ケ条にも農民や職人に関する規定はあるけれども漁民に関するものはない。山内氏入国後、弘瀬浦掟が定められたが、漁業漁民に対するものと云うよりも半農半漁の規定であった。従って漁業のみで生計を立てることはなかったと考えてよい。
土佐では古く延喜式に「土佐国堅魚八百五十斤云々」とある記事によって古来より鰹漁業があったとせられているが、よるべき文献はない。江戸時代には各藩主は将軍に代表的な国産品を貢納することを義務づけられていた。山内家の献上品は承応元年(1652)10月29日の忠義公から江戸在府の高島孫右衛門宛の手紙に、「賄船(まかない船)遣わし候につき干小鯛、塩小鯛、塩鮎、干鰤、初茶その外品々積み候て日和次弟出船せしむる筈に候」とあり、漁獲物の状態を察することができる。
『土佐藩の法制』によると「寛政7年(1795)8月浦々出来米の事」として当時宇佐浦における漁業を知るべきものとして次の文書を揚げている。
1.三枚帆漁船並小漁舟出買船共一艘ニ付米三升宛
1.鯨船一艘ニ付米四升宛
1.小まかせ網一帳ニ付米七升五合宛
1.大網一帳ニ付米七升宛
1.地引網、八太網、鰯網、磯地引網一帖二付米五升宛
1.大廻網、目近網、鮪網、米四升宛
1.小たらし網、網、鰡網、網、取寄網、ぶり網、
  取網、夏玉網、八手網、ロベ網、萬福網、米三升宛
1.このしろ小網、飛魚網、小網、米二升宛
1.越網、さより網、米一升五合宛
1.立網、いか網、たゝき網、内手繰網、米一升宛
1.瀬魚網、船一艘ニ付米一升宛
1.網一帳ニ付米七合五勺宛
 右廉々取立方爾来の通
これは宇佐浦における浦人に対する税であるが、宇佐以外の浦々においても同様であったことと思われる。文政8年(1825)の「漁物歩合の事」によると、水揚高の六歩を藩に取リ、二歩を上方に売り、残る二歩を地元に売ることを許し、5月より8月までの夏場は八歩を城下に召し上げることとしている。国産物の中でも特に鰹や鰹節そのものの漁獲については分一役、地下役の干渉があった。浦奉行であった淡輪四郎兵衛が鰹節について苦労することが『浦司要録』にある。
安政4年の魚揚場取扱規定によると問屋立会での売立代銀の一割を分一役人、地下役等に引き落しの事(三分を分一役場運上銀、三厘を分一紙筆墨料、一歩五厘を庄屋給、五厘を老給、三厘を小夫給、二厘を高作配、三分二厘を問屋給、一分を地下役給)となっている。浦人は浦分特有の分一銀の外に由畑貢租や諸物成代(後には銀納となり畑一反につき銀一匁八厘八毛となる)、更に課役の制度として「分一家作事等に地下人召使候時は賃飯米とも一人役に米一升ずつ遣はさるべきこと(『御郡方御定目稿』)となっていたので、出役しないと一人役として八歩を徴収された。
船主に対しては廻船、市艇の課役負担が定められていた。廻船とは大阪、江戸へ往来するものであり、藩内沿岸の運送には市艇があてられた。藩は民間所有の船の順番を定めて御用船として使用した。安政元年には3枚帆十石積以上八十石積までの市艇が538艘、順番によって、大阪への御用船は百石積以上四百八十石積までの廻船66艘があったが、その中から江戸御用船として廻船17艘小廻船40余艘の出役を課した。これらの船はおよそ1年に1回御用を命ぜられたのである。参勤往来のためには甲浦に関船が備えられていたのである。(『土佐藩の法制』)

欠落者
生活に困って他国へ逃げる者を欠落者といった。百姓、浦人の欠落を防ぐために山内一豊は逃亡者へは厳罰主義をとって来たが、寛永時代になってもあとをたたず、連座制、縁座制を強化し連帯責任制とした。
大阪陣のために藩の財政は苦しくなり、元和の改革となったのである。元和7年(1621)6月19日の定高札によると、「入国以来の走り百姓は、大犯三ヶ条の重科をのぞきその他の者はどのような罪科であっても宥免せしめる上は、たとへ遠国遠島の者であっても親類縁者の者は召しかえすべきこと」となって、欠落者の処遇が改善されることになった。しかしやはり百姓や浦人の欠落に対しては、その連帯責任によって五人組制度を強化するようになった。五人組の目的とするとろはその連帯責任制によって取締を厳重にすることであった。五人組の中で「万一年貢不納によって欠落いたす百姓があったときは親類五人組ならびに庄屋年寄は弁納すること、納入が完了しないときは穀物一切を他所へ出してはならない」(『地方凡例録』)のであった。
しかし淡輪四郎兵衛、西山七郎兵衛の浦奉行の日録と『浦司要録』などにある欠落の記録をみるとこれを防ぐことはできなかったようである。その後任である長谷川与左衛門、前野金兵衛の奉行時代もまた同じことが云える。
下灘奉行  長谷川与左衛門
天和元年(1681)男女22人
 内男女10人男7人松尾浦水主
 女3人
   男女 4人男2人同但足摺山百姓分
 女2人
   男女 4人男3人同但中村領百姓分
 女1人
   男女 3人男2人伊佐浦水主
 女1人
   男1人 同足摺山百姓分
右の者ども9月11日の夜伊佐浦年寄伝兵衛猟船一艘盗み乗逃げ申候
 男女5人 男3人
 女2人
右は大浜浦の水主9月13日の夜三崎浦の廻舟をかり清水浦より乗逃げ申候、尤三崎浦の船の船頭手前吟味仕り申所に欠落の手立毛頭存ぜざるの段紛御座なく候事
 一、男女16人 男13人
 女 3人
右は伊布理浦百々伊織殿百姓水主役仕るもの9月24日夜以布理浦の猟船盗み乗逃申候。
        上灘奉行   前野金兵衛
 天和元年
  1.夜須の新町の猟師吉左衛門、権右衛門と申すものの家内男女26人は9月12日の夜猟船1艘に乗り欠落仕ること。
  1.浮津の水主弥五兵衛、庄左衛門と申すものの家内男女10人猟船1艘に乗り10月15日の夜欠落仕り候。
    天和2年
  1.8月28日の夜男女18人浮津の猟船一艘盗み欠落仕候。
  1.9月3日の夜甚助猟船に男女16人が乗組欠落仕り候、この内1人は鍛治、1人は大工。
  1.10月9日の夜男女16人欠落仕り候。(『浦司要録』)
下灘だけでなく上灘でも以上のように欠落者があったことが知られる。「浦手の者ども度々欠落仕り候、今後は他国へ行き働きたき者は願い出れば許可すべく、もし欠落するにおいては召し帰して罪科申しつくるにつき浦々へ残らず申つけ候事」(『浦司要録』)とあるが、その通りであったかどうかは不明であるが、他国へ出たいという住民の要望に答えたものとして注目したい。