宿毛市史【近世編‐漁村の組織と生活-弘瀬浦掟】

弘瀬浦掟

野中兼山が奉行となったのは寛永8年であった。それから12年たった寛永20年(1643)6月2日に「本山掟」を兼山の知行地である本山郷に布達している。これは勤労と節約を要求する俊烈な兼山の指導精神を示すものとして注目される。十一か条の要点は次の通りである。
幕府の法を守ること、新田を開発したときは3年から5年は無税とする。貢物を完納のこと、田は11月限り畠は翌年6月限りとする。百姓は米の消費を無駄にしてはならない、秋冬の間は雑炊その他何にても食うこと、酒にしてはならない。若し違反するものは成敗する。これを隠したときは庄屋も同罪である。酒を買って飲むことや朝寝は禁止する、違反者は銀子三匁に処する。農業は時期を失なわないように、家普請などは農耕のひまにすること、家のまわりに桑を植えて蚕を飼うかまたは漆の木、茶、楮のほか年貢の足しになる木を植えること、違反すれば庄屋と共同責任とする。家衣服は見苦しくても差支えないからぜいたくは禁止のこと。公用を先とし私用は後まわしとする。すべて油断なく精出して働く者には褒美を遣すべく、また検見役に対しては飯汁の他は出してはならぬ、酒は堅く禁止するというものである。
ここで注目されることは庄屋の責任が厳しく問われることになったことである。庄屋は在地の有力者から、地方役人として位置づけられようとしている。「別役村名本給」として「太米一石、今年よリ遣し候、別役の惣百姓、影ものに至るまで1人1ヶ年に3人役宛召し遣うべきものなり、万治3年3月12日」(『披山風土記』)とあるように、名本給を保証したものとして注目される。

広瀬浦掟
広瀬浦掟

兼山は、「本山掟」から17年たった万治3年(1660)7月16日に沖の島弘瀬浦に出したものが「弘瀬浦掟」であり、半農半漁の生計を立てる特殊な浦人に対して細かく生活を規制していることは前述の、「本山掟」と対比して興味深いものがある。十七条の概要は次の通りである。
地下人は耕作を渡世とし猟などはうきものと心得ること。2月より8月までは猟を専とすべし、8月より正月までは耕作に励むべし、但し冬も猟を怠ることなく、また、夏も耕作を捨てるべからず、鰹釣りは魚群を探すこと、見当らぬ時は早々に帰って陸上の仕事をすること。漁の火光使用の船を2艘に増し、魚尋船も2艘とする。中の網代に魚を発見しない時は遠出して網漁をすること。月夜に、はえなわをすること、闇夜でむろあじ猟のできないときまたは昼間でも隙の時は、はえなわを仕掛ること。沖に出ることのできないときは竹薪を伐り、苫かやを採ること、取りためた品は買い上げる。海上の仕事のできないときは網ごしらえ、苫編みをすること。苫かやの成長しすぎた所は時期を見て延焼しないように焼くこと。田地をわけ誰が耕作に精を出し、誰が不精であるかを吟味すること。地下人が漁の魚を盗まぬように申付ける。塩魚の塩をつけるには適度にすること。助左衛門に貸米のある間は助左衛門の取前を差引くこと。弘瀬浦の風俗が悪いので今後は厳に男女の別を正すこと。守らぬ者は罪科に処する。12、3才から15才迄の子供で沖に出られない者には薪を取らせ、苫あみ繩ないなど相応の仕事をさせて油断させぬこと。地下人が釣猟または山仕事に従事するときは飯米を1人に5合宛貸すが、猟道具、網拵へ、苫あみなどの時は蔬飯とする。秋には鷹をとること、鷹は地方で買上げる。弘瀬浦の女は他所に嫁いではならない。
右の条々を堅く申つける。此の如き法を出しても、浦奉行が其所へ行って詳かに吟味をとげなければわからないので、浦奉行は時々沖立の船に乗り又は山の作業をも見分し、3日に一度づつ家々を廻り精を出したものは取り立て、怠リたるものは誡め、浦奉行が先に立って教へ、随わない者には罪の軽重を申つける、勿論重科の者は死罪にすべきこととなっていて、その根本においては本山掟とさして変化はないのであるが、どこまでも耕作によって自給生活のできる、生活の安定した漁民であることが要求されているのである。  自給度の高い漁民をもって漁業生産に当らせることは藩政にプラスになる。不漁の場合にも藩の負担とならず、その生産物は藩財政の強化に役立つこととなるからである。
寛文2年(1662)12月2日の国中掟、天和3年(1683)6月の郷中掟などにおいても農民や浦人に対してはその日常生活における諸事について、細部にわたって指導制限を加えている。それらが集大成されて元禄大定目(元禄3年3月)となった。

天保改正仕法
天保14年3月に「沖島浦改正仕法地下申附の事」として次のように布達されている。
(1)沖島は以前から補米を下されているが。それでも年々困窮の上に近年は鹿が多く作物を荒し、荒畑が多くなり余計に難儀になっているので、今度公費を以て鹿垣を作って荒畑を開発するように申つけ、以後は子供に至るまで昼夜をわかたず働くよう心掛けること。庄屋、老はよく検分して畑を荒す者からは土地を取上げ、よく働く者に耕作せしめるようにすること。(1)石垣堀切などがいたんだときには皆が直すこと。大破の場合は地下中が出て直すべきこと。(1)新開の畑などへも当麻、苧を植付それが出来たら網の苧にすること。右の同じ田へ琉球を植付けそれで莚を作ること、またそれは作配方へ買入れること。(1)芋や麦の種はどのような事情があっても食ってはならぬ。(1)畑のまわりには櫨を植えること。(1)借地山へは杉苗を植つけること、年をへて用材になるようになっても勝手に伐ってはならない。(1)畑地一反につき初穂料として麦二升、芋二貫目を取立てること、右は諸祭礼の費用とすること。(1)借地山の木が大きくなったときは三方切にわけ一と方切を薪山に残し、ニタ方切を20ヶ年目に売りその代銀は地中の融通銀とし、勝手に配分してはならぬ。(1)長浜網代は1ヶ年網代式を金十両で他所へ貸してあるが、来々巳年までであるから年明けには右網代式を受取って地中の融通にすること、その他の網代に他所の網を置くときは定めの通リ漁物に二歩宛取立てのこと。(1)他所へ船を出すときは順番によること。出帆歸帆とも男女ともに出て世話をすること、そのつど分一へ届けて不法なことをしてはならぬ。船挽場が傷んだときは地中で修繕すること。(1)難船を見つけたときは庄屋老地中の者共身命を惜しまず助船を出すべきこと。(1)男女共他所へ働きに出ることは差留のこと。男子出産のときは米二升宛つかわさるのは従来の通りである。(1)苫仕なしは第一の産業であるから苫一枚につき八銭一分宛口銭として作配方へ引落し地中融通金とすること。(1)是までの畑地は新古とも合せて百石余ある。右の麦の収獲は百六十石ばかりである。一石につき麦の出来を一石六斗に積り、右の一石につき芋三百貫目ばかりとすると芋三万貫に積り、右の通り出来るとして此の麦と芋を男女子ども合せて300人として1人宛に麦五斗三升余、芋百貫目ばかり当るわけである。是に補米を足すと十分に足りるわけであるから、精を入れて働くべきである。若し不出精で困窮する者はきっと糺明するであろう」と云うのである。この時の署名人は「沖島浦役人寺田恵七郎、改正作配小盡七ヶ浦庄屋代浜田彦兵衛、同安満地一切浦庄屋代亀谷権助」の3人である。
この改正掟書について次のような文書が『大内町史』にあるのでその全文を次にかかげる。「沖島、古昔は伊予土佐の境目も爰よりと云う事もなくてただ両国の云伝へのみなりしを、野中伝右衛門殿力を尽されて今の如く境も正しくなれり、是みな人の知る所なり、然るを後の世に至りては伝を誤り、沖島を争う隙に阿波へ宍喰を取られしは少利大損なりと申し習はせり。是らは実に地利にくらき者の説にて云うに足らぬことなり。沖島本地を離ること僅に3里なれども船の着くべき所もなく、少の浪風あるときは通路なりがたし。しかも平地少くして牛馬を飼う事さへならぬ程の所なればたとへ皆々御国の有となるとも、益なきことと思うはさる事なれども、其所に行きて見聞しぬるに誠に深きおもんばかりあるなリ。彼所に堺を立てられしより海の境も弘くなりて、釣すること海士のためのみかは。御国の利益も少なからず、実に伝右衛門殿の功の大なる事筆の及ぶ所にあらず、かように堺を立てられし上に島人ども後後まで渡世に事を欠かぬようにと掟を残しおかれしに、年を経るに随いて島人等いつしか怠りがちにて土地も荒れ果て、朝夕の食事に苦しみ妻子を養ふ事さへしかねるよし、年々の愁訴やむときなし、上よりの御介補にて漸くすぎゆきぬ。このままにては次弟に困窮し、伝右衛門殿の功も空しくなりなん事のなげかはしく、今年天保13寅の秋園村永次郎と謀リて、作配役寺田恵七郎、小尽七ケ浦庄屋代浜田彦兵衛、安満地一切浦庄屋代亀谷権助等を撰びて伝右衛門殿の掟を振起し、土地開発の事を始とし産業の立つべき事考へよとて遣せしに3人よく力を盡し事を今年寅の11月21日に初め、卯の2月30日に功を終へぬ。鹿囲の石垣を築くこと千二百三十間余、人夫を遣ふこと1215人なリ。あまつさへ後世まで怠らずして口上の御恵を忘れぬようにとねんごろに残し置く。この一巻は則ち伝右衛門殿の志をつぎしことなればよく守りて怠るべからず、よって巻の末に記して後の島人に告ぐるものなり。天保14年卯8月、高屋順平記。」この筆者高屋順平は10年後の安政2年(1855)と文久元年(1861)には幡多郡奉行となっている。