宿毛市史【近世編‐漁村の組織と生活‐弘瀬浦掟】

沖の島の困窮

沖の島の人々は山の段々畑と漁によって生活を支えていたのであるが、享保17年(1732)11月24日の文書には「近年無猟につき三浦助左衛門家内ならびに地下人ども餓に及び候。助左衛門より願い出て御仕置中へ報告、詮議の結果大体の人数で計算して今年中に救米十石を遣すはずである」(『浦司要録』)とあるが、それから5年たった元文2年の11月27日には次のように書かれている。
「沖島は近年漁がない上に船網、船の引揚場が大破したので猟はすでに止まってしまった。そこで右の修繕料と引揚場普請のことで去年の夏助左衛門が見積りで願を差出した。そこで浦方先遣龍見与右衛門、普請方役人田村熊之丞、矢野川瀬助らによって見分の上御仕置方へ報告があった。右の費用は仕置役の手にあいがたいので来年藩主が江戸から歸るのを待って作配方を仰せつけるつもりであるが、それまでの間助左衛門家内、地下人どもへは救米を遣すことに決定していたところ、助左衛門からは昨年の訴えに追訴を添えて差出した。藩では、財政窮乏の理由で差戻したのであったが、助左衛門は再度訴状を差出したのである。
その理由について、沖島は伊予との境であるから伊予の漁師がやって来るのを止めてはいるが、土佐領へいつやって来るかも計りがたい。そこで昨年見分役人の見積リの通りとし、また昨年以来の補米と救米を除いて米二百石を渡して下さるなら船引揚場等の普請は浦人どもが致すので聞屈けて下さるように、と云うのは一昨年以来漁ができないので網代を捨てておくと伊予の漁師共が来て理不盡に漁をすることになろう。その時は捨おくことはできないので地下人共と争論も起ることであろう、昔の境論もそのようにして起ったと云うことである。そのことも奉行へ申上げてもらいたい、というのであった。
それに対して藩からは、去年の積書を減額したのであるからその通りの修覆料を来年の春に遣すことに決定した。御米のことは追て申遣すはずである。それまでの間は助左衛門家内への補米と地下人共への救米は去年の通りつかわすことになった。右の通り助左衛門へ申渡した」(『浦司要録』)と西浦奉行真辺太次右衛門が書いている。
これでみてもわかる通り浦人の生活も決して楽ではなかった。それから約40年後安永元年三浦家を相続した義純の控書は次のようである。
「三浦助之亟この度沖島広瀬浦支配を以前の通り仰せつけられ候」とあって「御用米のうちから今まで父助左衛門へ補米二十石を遣はされその上暫くのうち十石を加へて三十石下されておった。また助左衛門が沖島支配をしている間の借銀が四貫八百目余と借米が八十石余あったが今度捨置くことになった。また運上銀その他も暫くは納めなくてよい。浦人どもならびに地方知行の郷士も百姓の通り心得て公用漁業に差支へないよう」(辰正月、安永元年?)に心得べしとある。同じ辰2月24日付の文書は次の通りである。
「当浦(沖ノ島浦〕は亡所と同様であって地下人どもの居宅は漬れ家同然のものが数々ある。その他漁道具が揃はないので沖立の日和にも沖立もできない。分一役に聞いたところでは網のいたみで諸漁に差支へるので、早々に分一役を差立てられて諸漁道具を揃へて漁業に励むよう申付られたい。地下人共は漁に出れないので苫をあみ渡世をしているようでは浦も成立ちが覚束ない」と訴えている。
以上は土佐領沖島のことであるが、宇和島領沖島も大同小異であったようである。
 保14年(1729)1月19日鵜来島困窮のため山役、水主役、諸魚五分一銀を3ヶ年免除する。同月25日には沖島不漁のため諸魚五分一銀を今年1ヶ年免除する。
 保15年(1730)3月沖島諸魚五分一銀を御免のところ当年より取りやめ上納を仰せつけらる。
 暦元年(1751)8月21日には沖島より鰹節600、鵜来島より同5挺を献上しているが、同10年(1760)には沖島より貢物を納める力がないので冥加として漁事五分一銀を上納することを願出ている。
 和2年(1765)10月には沖島仕成山困窮のため諸運上を免除している。
 化3年(1806)12月沖島へ竹を植えることを命じ、文化6年にも再び竹を植付ている。
 政5年(1822)と天保元年(1830)には沖島と鵜来島から冥加として大豆の献上を願いでている。
 た宝永4年(1707)10月4日の地震では沖島(伊予分)で二人の死者があった。
                            (菅菊太郎『南宇和郷土史雑稿』)