宿毛市史【近世編‐漁村の組織と生活‐弘瀬浦掟】

沖の島の養蚕

大化の改新で絹は調としてあげられているので養蚕は行われていたはすであるが、沖の島でいつ頃から行われたかは明らかでない。水田が少なく農業生産力の低い沖の島でいわば現金収入を得るために副業として行われてきたものであろう。従って桑は屋敷廻りや、堤防、川沿いの荒地など、米麦その他の作物に適さない土地に植えられたのである。
貞享2年(1685)に中国から絹糸の輸入が制限されたために、各地に養蚕が奨励された結果によって養蚕が次第に盛になったとされている。沖の島の養蚕の記録としては、元禄6年(1693)5月18日の浦奉行横山新兵衛の文書には次のようにある。「沖島弘瀬浦には桑の木が如何ほどもあって里方の桑より葉色もよいけれども、現在まで蚕を飼ふものはない。海辺では蚕がよく育たないのではないかとの疑もあるけれども、八丈島や九州久米島なども綿(真綿)が名物のように聞いているので、試に飼わせてみてはどうか、能く育ったならば国のためにも相成ることである。そのために、元手も大して入らないと思はれると、弘漱浦役人村田源助が書面で申出ておるので、御仕置中へ御届いたしたところ、前例のないことをよく思いついた。早々試に飼わせるようにと御仕置から申つけられた。」(『浦司要録』)
それから2年たつた元禄8年6月22日付にて「沖の島で今年とれたまゆを以て作った真綿を御仕置中へ御目にかけた。この綿も出来がよく、桑は沢山あるけれども浦中の者は蚕を飼ふことをあまり好まないと云う。浦役人沖次平から今後止めさせるか、飼せるかいかがすべきかとの相談があったが、年々功者になるのでとかく飼せるべきである。御仕置中からは三浦助左衛門へ申しつけると云うことである。右の真綿代は口銀なく養蚕者に渡すことに定められた」(『浦司要録』)とあって、貢物なしとなったが、その後沖の島の養蚕はどうなったかについての記録はない。