宿毛市史【近世編‐漁村の組織と生活‐漁場と水産物】

漁場紛争

湊浦、小浦、内ノ浦、外ノ浦等の各漁場の境界論が長い間つづいた。いま残っている文書は寛永8年(1631)3月6日のものが一番古く、一番新らしいのは明治2年(1869)2月のもので238年にわたって時々起っている争いであるが、その間9回の協定が結ばれて解決している。毎回同様の問題で争論が起っている。その中で天和3年(1683)の文書によってその内容を示すことにする。
「天和2年の暮、小浦網代はりめへ湊浦網を遣廻し袋□おこし湊小浦の堺□けんをこし申候ニ付網代床ニ付論御座候処段、大海浦庄屋栓左衛門殿、栄喜浦庄屋金左衛門殿、内ノ浦庄屋七佐衛門殿御才判を以て小浦、湊の堺は小谷限に相定申候。向後袋おこしの所は小谷岸より水落の所より白はいまで間を打其間はりめへも間を打湊は白はいより小谷へより袋おこし申まじく候。小浦も唯今相定の所より小谷へ寄り袋おこし候はば何程の大猟仕候とも証文□相守申方へ速と魚相渡し申べく候。」とあって、湊浦と小浦との境は小谷の水落と定められているが、それには陸上のように境石がないこともあって、240年間の争となっているのである。
貞亨元年の協定書も境界の確認書であるが、小谷水落から十四間半西が白はいで、小谷から東へ十四間半が石ぐろ傍示杭で小浦の境であった。それから内へ入っては侵犯になったもののようである。
文化4年10月の協定書によると「古来より外浦内浦1日宛番替」となっており1日交替で漁をするのは古来よりの仕来たりであり、湊浦小浦等も一日交替で漁業をして来たらしい。ついで文政3年の協定書によるとくじ引によって順番をきめている。即ち「10月1日湊浦、2日小浦、3日外浦、4日内浦、右の通り順を相立四季の漁事年中順番に致すべく網遣いの儀は、他浦網は申すに及ばず右組合の網とても番当りの浦へ網代敷請取申すべき事、前方入合の場所ニ付順番廻りも相極め申候」とあって、各浦々の網頭及組頭が連署しているのであるが、やはリ境界を守らなかったということで毎回争論になったもののようである。しかしこれらの文書では漁獲高その他のことについては一切わからない。文政年間に目次めじか網のことが出て来るが、その規模や漁獲高についてはやはり不明である。当時の交通その他を考えるとそれぞれの浦周辺の人々の食膳をうるおしたにすぎなかったのではあるまいか。