宿毛市史【近世編‐町人と職人-宿毛市街地】

宿毛市街地

宿毛右衛門大夫の住居はのちの伊賀氏の住居である宿毛城の麓にあった。当時の宿毛の町並あるいは人家の状態についてはあきらかではないが、野田甚左衛門もここに居り、ついで山内一豊が入国して山内可氏が宿毛の守りについたのであるが、可氏は宿毛城を修理してここに居たのである。
妙栄寺文書に「龍谷様(可氏)宿毛へ御座なされ候時野田甚左衛門殿御住居の所へ落ちつき、上の松田城御普請なされて城に御座なされ候、下の御家をば下屋敷と申し候」とある。即ち山内可氏の入った土居の家は「野田甚左衛門殿の御家にて候、その後一国一城(元和元年1615)と仰せ出され候時に城を毀ちなされ候」とある。町並については不明であるが、それまでに住民がいたことは間違なく現在のような町並が形成されるようになったのは可氏の時代からのことであろう。
「松田城の上の山のはなをば笛の段と申候、また矢蔵の段とも申候、その子細はここに家あり番人居り申候、いにしえ世上さわがしき時節には大道往来の者5、3人もこれあり候へば、松田城へ知らせ申す笛を吹き申候、その時松田城よリ相図受けの笛を吹き申すによつて笛の段と申候」とある。土居の後、松田城への途中の段のことであろう、また「北方様(山内一豊の姉通姫)御部屋は川戸の堤ぎわのあたりに御座候」とある。
この松田城はもと松田兵庫の居城であったと伝えられ、兵庫の墓が西口の門の脇にあったのを取除いたとも云われるが明らかではない。「御書院の前の堀は龍谷様(初代可氏)の時に掘らせ候ものに候」という堀は、昭和20年代の後半に埋め立てられるまであった。
北方様が妙栄寺を建立されたのであるが、「町中方々を3日づつ御乗物にて御廻りなされ」て場所を選定したのであるが、その日数はともかくとして土居の西側、現在「北方様史蹟碑」が道路脇に建てられているが、その一廓が妙栄寺の跡である。

宿茂絵図
宿茂絵図

初代可氏の建設した宿毛の町並は現在に至るまで烈しい変化はなかった。当時の町並がどのようであったかは延宝年間(1680)頃のものと推定される『宿茂絵図』(五藤良政氏蔵)によって明らかである。伊賀氏邸(土居)の追手門の前を東侍町と云い、突き当って右へ曲った所が広小路で、そこから西へ本町(百七十間)でその西の端に高札場と夷子堂、その広場に大庄屋がありそこから少し離れて一里塚がある。本町の南側の通りが水道町(百二十六間)で真中に水路がある。水道町の南側が侍町(現在の真丁であるが、絵図は途中まで)である。広小路から南へ上横町がありそれを通って東へ曲ると新町(五十四間)となり、やがて南へ曲って土手町(六十間)となり現在の宿毛大橋の渡し場へと通じている。本町と水道町をつなぐ中横町、下横町(いづれも二十八間)があり、追手門から西へ堀に添うて妙栄寺に至りその西側に奉公人町があった。

武家屋敷
武家屋敷

町並の家々は武士の名で表示されているものが26で、明屋敷、奉公人の家が22、町屋が115である。「広島陣(元和5年(1619)6月)の時は御父子様広島へ御越し遊ばされ、御鎧遊ばされ候て勢揃ひあり、御父子様御鎧御馬上にて御座候と覚へ候、ノボリなど立てそろへて御侍衆も御供にて御座候、御関船3艘、そのうち大関は9端、残り2艘は6端にて御座候、荷船4、5艘、御馬3疋なり、時節は夏と覚え居り申候」(妙栄寺文書)とあり堂の前まで船が入つて来たのである。

嘉永7年地震前宿毛の図
嘉永7年地震前宿毛の図

「明暦2年(1656)2月23日に新町火事につき同年新町の町割仰せつけられ奉行時岡儀兵衛、岡添猪大夫承り町割仕る由に御座候」と『清文公一代記』にあるが、この新町は『宿毛絵図』(1680頃)にある新町(現在の上町)であって、現在の新町はまだ町になっていなかったであろう。現在の新町はもと紺屋町と云つていたのを改めたものであると云う。安政元年(1854)11月の地震前の宿毛図と延宝年間の絵図を比較してみると侍町(のちの真丁)と現在の新町(紺屋町)が出来ていることが変化したと云えるくらいのものである。安政図では武士が70、町屋が176である。