宿毛市史【近世編‐町人と職人‐職人】

大工

天正宿毛村地検帳で知ることのできる職人は大工と鍛治であってその他については全く手がかりはない。地検帳には平田番匠と明記されているが、その理由については知ることができない。平田番匠の氏名と給地は次の通りである。
山田郷河崎新左衛門 地 三十代
 〃 岡野源兵衛〃四十八代
平田郷岡野源四郎〃九反二十代
 〃 芝岡市兵衛〃一反
 〃 岡添左馬之進 〃五反三十六代
 〃 岡田左衛門尉 〃五反二十代
 〃 岡□□□□〃□□□代
宿毛郷 四良衛門〃一反二十代
大深浦
榊浦(栄喜)の地検帳に、舟番匠として太良三良、右衛門佐、八良二良、三良五良の4人の名があるが、前の2人は天地浦に他は小満目浦にいるのである。これらの大工が山田、平田にいてその他にいなかったとは考えられないのであるが、地検帳はもともと耕作者を対象とした為に書きもらしたのではあるまいか。
安永7年(1778)和守神社の祭文(氏篤)と共にある文書には大工棟梁北岡九郎兵衛具応、大工岡崎喜左衛門正光、植野清蔵清春の名があるので、これは和守神社の建築者であろう。
城山と西山墓地、過去帳その他から見出した職人には次のような人々がいる。御畳師是助(文政7年)と御手大工清蔵(文化5年)の墓は城山墓地にあるが、浄土寺過去帳による大工は次のようである。御手大工良平、平次、御舟大工治吉、樽屋清助(貝塚)。
その他の大工として宿毛では弥三郎、七左衛門、万五郎、萩原では荘吉、宇三郎、与一明では市次、貝塚では新蔵、荘吉と樽屋幸吉、大深浦には寿八が居り、田ノ浦に運吉がいた。また大島には與人、治吉、新兵衛、駒之丞、弁助、弁造、万五郎、万平がおり、大工頭として銀蔵がいた。また山田村には歌吉、歌次、友次の名が見える。また明和6年(1769)の宗門改には御手大工喜左衛門の名が見える。
有田家文書には御手大工用七伜浅之丞、木挽市助(和田)永六(二宮)がおり、樽屋直助(橋上村)がいる。