宿毛市史【近世編‐町人と職人‐職人】

鍛治

『伊賀系譜』によると7代氏篤が藩主山内豊敷に対して「宝暦6丙子年(1756)3月3日在所鍛治新左衛門作鍔指上げ」とある。そして9代氏睦が山内豊策へ「享和3癸亥(1803)12月26日在所鍛治桑山助秀刀一腰(長二尺一寸二分、棒鞘上金下赤銅篠)使者を以て差上げ」とある。
新左衛門については他に何等記録がなく不明である。助秀については別項に譲るが、『有田家文書』には宿毛横町鍛治嘉吉、もと桑山真十郎ことと真十郎の名が見える。
城山墓地に「鍛治、勝次、享和元年酉正月2日」と「鍛治松田利兵衛重清、79才、寛政7乙卯11月28日」その他松田一族の墓がある。勝次については不明であるが松田氏については、『安政3丙辰年3月吉日永代諸覚記』があって、明治3年5月まで利五平によって書きつがれている。この文書は文化10酉年(1813)からであるが、それ以前のものではないかと思われるものもあるが、以下『松田文書』によって記すこととする。
文化11年6月町老常三郎宅にて父利惣太眼病により組頭代勤仰せつけられ宗門当番を勤めている。翌12年10月会所へ呼びつけられて組頭役を申しつけられているがこれは利惣(想)兵衛重正であろう。重正は天保2卯年8月18日に死亡した。天保10亥年(1839)正月5日麻上下着用の上中村郡方役所に呼び出されて去年の夏御上使巡見のとき亭主役をつとめたので褒美として銀八匁宛下されたとあり、その時の亭主役は津野屋久三郎、小野屋善平、のしや利五平の3人であった。12月には会所作事のため裏板釘一万本を差出したので御手鍛治に抱えられ、席順は御舟大工弁助の次であった。
天保11子年(1840)4月御館新作事につき鉄物を作成、翌年裏板釘12000本を差出したので銀五匁をいただいた。
天保13年(1842)10月3日には平田村藤林寺一条公様300年忌に所縁の者として出席、旅刀御免にて出席、中村奉行所先遣北川専八よリ此度の拝霊により家名御免となり、雨天につき下馬先まで下駄にて進み出た。
  京都一条様より御代香
             正六位  市知地千右衛門
    金五十疋     法身へ
    〃二十五疋   御茶所へ
    〃二十五疋   藤林寺へ
    大鰹節五     市知地へ
  一条様より御料理なされ候。
弘化2巳(1845)12月御風呂家作事につき八銭百五十匁差出すと奇特の至りとして帯刀御免となり、席順は北岡嘉蔵の次となった。
嘉永元申年(1848)6月御召船及び小舟を新作事につき、赤銅金具一切と太鞁鋲1500本、平鋲2500を差出した。
安政3年(1856)2月西屋敷作事につき4月裏板釘五千本差出、同じく10月には板塀釘二寸五分千二百本、二寸千八百本差上げ、安政5年7月には会所作事につき裏板釘5000本、安政7年6月には御茶室作事につき裏板釘五千本を差出した。御茶室の御役頭は上村範蔵で下役は酒井三野衛門であった。慶応4年3月には福良口新田開拓につき井流釘四百本、一貫六百七十匁差出し代銀二百七十七匁六分を下された。
以上で「松田家覚書」は終っている。御手鍛治を仰せつけられたとあるが、天保9年(1838)3月の「御士分姓名順」(林家蔵)には、
  従是御手職人               北岡嘉蔵
                          野村楠蔵
                          宮川安平
     御手大工               孫   次
     御手鍛治               新右衛門
     御船大工頭              銀   蔵
     御船大工               万   平
     同                    弁   助
     御手大工               勘   六
     御手左官               善   八
     御手大工               久 之 進
     同                    用   七
     同                    浅   丞
     同                    孫   平
     同                    鉄   蔵
     同                    庄   吉
とあって松田鍛治の御手鍛治になる前年のものであるからここにないのも不思議ではないが、席順が舟大工弁助の次とか北岡嘉蔵の次などとあるのは興味がある。