宿毛市史【近世編‐町人と職人‐職人】

刀工桑山助秀

『刀工総覧』(本阿弥光遜、室津鯨太郎著)に、助秀土州桑山助(勘)蔵、大阪助隆門、文化、同二代 青萍子助秀 文政
助直  土州助秀子、行秀門  嘉永
とあり、また『土佐偉人伝』には「助秀通稱は桑山勘右衛門という。大阪の刀工助高(隆)が門人なり、幡多郡宿毛に住して刀を鍛う。」とある。それ以外の記録はないので、墓碑、位牌を検討して想定した家系は次のとおりである。
 桑山家系図
 九左衛門(寛永2年1625)
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    金右衛門
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    庄左衛門
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    伝八吉行
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   勘右衛門助秀
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   新十郎助秀
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    勘蔵助直
桑山家は代々鍛治を業としたが、途中で桑原姓となり、寛政年中に至って桑山姓に復して現在に至っている。
6代助秀は大阪の尾崎源五右衛門助隆の門人となり、初代助秀を名乗った。父は伝八吉行、母は真である。
宝暦6年(1756)宿毛に生れ、初め桑原勘蔵行広と名乗った。上阪して助隆に入門して伝授を受けている。
    誓文返書のこと
 一、そこ許儀刀剣の職に随い多年執心につきこの度入門致したくと再度の頼みにより門人に加へ伝授申すこと実正なり、然る上は其意を胸に秘め怠ることなく稽古致すべきは勿論自分の子でも弟子でない者にみだりに伝えてはならない。よって誓文返書件の如し。
   寛政8丙辰年6月
           尾崎源五衛門助隆
  桑山勘蔵行広殿
                     (桑山家蔵)

鍛治秘伝伝授書
鍛治秘伝伝授書
これは助秀の差出した誓文に対する助隆の返書である。この時助隆は44才、助秀は41才であった。その翌年助隆から助の一字を許されて助秀と名乗るようになった。以来桑山姓に改め桑山勘蔵助秀と名乗り宿毛に帰って作刀したものと見え、寛政9年(1797)以後の刀が存在している

享和元年(1801)には国学者谷好井(真潮の弟、干城の祖父)に『鍛治起元1巻』を記してもらい同年勘蔵を勘右衛門と改め、作刀にも桑山勘右衛門源助秀の銘を切った。右起元巻の巻末に「右一軸は先考の録する所、旧来伝聞する所の説にて今金工桑山助秀の需に応ずると云う、享和元年7月6日谷好井謹書」とあり、『宝剣伝に相剣を附す訳』の一書があり、その巻末には「宝剣伝相剣の訳は我が家の深く秘する所にして猥に他伝せずといえども多年の執心深きにより今これを附与す、平生清浄正直の心法忘失することなく之を勉め之を敬い違訓なく伝うべしと云う。享和元辛酉年7月吉辰、木村久太郎、桑山勘右衛門殿」(桑山家蔵)鍛刀の精神の書として助秀が所望したものであろう。
助秀の刀は伊賀系譜によると享和3年(1803)に「在所鍛治桑山助秀刀一腰差上げ」とある通リ藩主に献上している。その刀があるかどうかはわからないが、県内に存在していて確認できるのは9本で、その作柄は、地肌は板目、刃文は涛乱刀で、錵荒く、地錵もつき、茎は身幅に比して細く、特にその先は剣形でとがっている。銘の書体は行書が多いが、隷書もある。
いづれも字は上手でたがね運びは軽くのびのびとした銘である。字は年代によりかなり変化している。助秀は文化14年(1817)5月8日62才で病死、妻は天明4年7月18日22才で没し墓は西山墓地にある。
2代桑山新十郎助秀は養子で、中村の亀谷仲右衛門の2男である。新十郎も父の業をついで刀を鍛え文久4年(1864)2月17日78才で死去、妻は初代助秀の娘恵喜で文久3年74才で死去、初代助秀の墓に隣っている。墓碑は真十郎とあるが壬申戸籍や自筆文書には新十郎とあるのでそれに従うこととした。
新十郎助秀は前記刀剣書には青萍子助秀と銘を切ったとあるけれども、現在までに発見されていないが、「於紙園社桑山助秀作之、文化10年12月日」の銘がある刀は、あるいは2代助秀の作かと思われる。なお新十郎については、有田家文書(弘化2年1845)の上荒瀬井溝工事の諸職人の中に「鍛治、野地村へ御追放有之候者前桑山真十郎事、真十郎、此人少々細工為致申候」とある。その事情は不明であるが、名字取上げ所払の処分をうけていたものかと思われる。ところが浄土寺過去帳の安政2年(1855)7月19日に新十郎の子の名が見えその肩書には「御手鍛治」となっているので、伊賀家と無縁だったとは考えられないのではないかと思う。
前記刀工総覧にある助直については行秀門とあるが何らの資料もないので不明である。墓は初代2代から10メートルほど離れて西山墓地にある。(土佐史談橋田庫欣「刀工桑山助秀」による)

桑山助秀の墓
桑山助秀の墓