宿毛市史【近世編‐交通‐陸上交通】
道番所
土佐藩では、関所のことを番所とも、道番所ともいった。陸路の要所や国境の道路に設置された検問所で、国境近くに置かれたものを境目番所といい領内の要所に置かれたものを内番所といって区別した。
これらの道番所は、長宗我部元親の時代にすでに置かれ、通行切手のない者は通ることが出来ず、もし脇道を抜けて通る者があった場合は銭一貫目の罰金をとられたのであった。
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番所通行切手(表) |
番所通行切手(裏) |
長宗我部時代の幡多郡下の番所は、秦氏政事記によると、上山口、下山川崎口、下山津ノ川口、下山大宮口、下山藤ノ川口、下山奥屋内口、権太郎口、橋上口、宿毛定宮口、松尾坂口となっており、これらの番人は、殆ど庄屋の兼帯であった。
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松尾坂番所図 |
宿毛市内の番所である橋上口は、後の奥奈呂番所、松尾坂口は後の松尾坂番所と思われるが、宿毛定宮口はどこだか場所がわからない。
山内氏入国後も番所の制は、そのまま引き継がれ、慶長17年(1612)には、特に流亡者の取り締りを番所で強化することとなり、寛永6年(1629)御定目によると、奉行の切手のない者は通行させないようにしている。但し、遠くの百姓は、その土地の庄屋年寄等の切手で通行してもよいことになっている。
寛文4年(1664)には、より詳しく道番所の通行規則が示され、それが元禄3年(1690)の大定目となって道番所の定が出来上がっている、これらの規則の主なものをあげてみると、
道番所の規則の大要
| 一、 | 他国から入って来た者で、使者、飛脚は、文箱等を持っていることを見届けてから通すこと。 |
| 一、 | 見舞や自分の用事で入りたい者は、村送りで相手に知らせ、入切手をもらってから通すこと。 |
| 一、 | 他国から商売に来た者は、数年も前から来ている者で、関所の者もよく知っている者は通してもよい。はじめて来た商人は、たとえ通行手形を持っていても、通してはならない。ただ茶など国内の品を買う男のように、こちらの百姓共に都合のよい商人は、通行手形を持っているか、又は数年も来た商人と同道で、証人になってもらえば通してもよい。但し、その付近を離れて、国内へ深く入ることは許さない。 |
| 一、 | 他国よりの品物は、決めた物以外は入れてはならない。 |
| 一、 | 大鋸、杣その他の職人は入れてはならない。 |
| 一、 | でこまわし、さるまわし等の者も入れてはならない。 |
| 一、 | 遍路は手形を見届け、甲浦口と宿毛口より入れ、その他の番所は通してはならない。 |
| 一、 | こちらから、他国へ出る者も、通行手形等を持参しているかどうかを、よく改めること。 |
正徳6年(1716)には土佐全体で81の道番所があったが、幡多郡下では境目番所が17、内番所が2となっている。これが、天明期(1781~1789)には数は同じであるが、設置場所に少しの差異があって次のとおりとなっている。
幡多郡下の番所
| 境目番所 | 下津井口、大道、戸川、権谷、庭田、葛川、西ケ方、中家地、松ケ奈呂、大宮、小川、松尾坂、中筋、浜筋、奥屋内、出井、楠山 |
| 内番所 | 津野川、奥奈呂 |
このうち宿毛市関係の分は、小川、松尾坂、中筋、浜筋、出井、楠山の6境目番所と、奥奈呂の内番所である。以下これらの番所を簡単に説明してみると、
| 一、 | 小川番所 国道56号線ぞいの小川にあって南宇和郡の現一本松町方面よりの道をかためていた。この番所の番人は、はじめは山本兵庫(新城山で戦った山本兵庫とは別人)で、後には岡崎氏が勤めている。現在番所の跡に岡崎元良氏が居住している。 |
| 二、 | 松尾坂番所 大深浦の入口にあって、代々長田氏が関守をしていた。現在もこの関所の跡に長田久雄氏が住んでいる、この番所は、土佐の主要街道の西端の番所で、四国遍路は、この番所と、甲浦の番所以外は出入りができなかったので非常に人々の出入りの多い番所であった。 |
| 三、 | 中筋番所 中道番所ともいい大深浦口から志沢尾へ抜ける所にあり、その地に現在武内健次氏が居住している。松尾坂の脇道を抜けた者や脇本方面からの侵入者の番をしたのである。番人は代々岡野氏が勤めていた。 |
| 四、 | 浜筋番所 大深浦口から志沢尾ロヘ出る海岸にあった番所で、その地に現在山下一氏が住んでいる。中筋番所と同じく松尾坂の脇道を抜けた者や脇本方面からの侵入者の番をしたのである。番人は代々山本氏であった。 |
| 五、 | 出井番所 出井部落の中程にあって、今の県道よりはずっと高い所にあった。その跡は今水田となっている。槇川方面よりの道をかためたもので、ここの関守ははじめは江口氏後には沖氏が代々勤めている。 |
| 六、 | 楠山番所 楠山の横平にあって、その跡に中山氏が家を建てている。篠山や正木方面からの侵入者に対して番をしていた所で、代々都築氏が番人或は番人庄屋として関守をしていた。 |
| 七、 | 奥奈呂内番所 橋上町奥奈路部落にあった内番所で、脇道を通って入って来た者も、この内番所でおさえるようにしていた。ここの番人は庄屋の兼帯ではじめは安岡伝七とその子久次右衛門、寛政7年には甥の間崎次助が番人庄屋となり、子の良信があとをついで明治4年12月に守関が廃止されている。番所の跡は県道よりは南へ下った所にあって今は人家並びに水田となっている。 |
これらの番所には、ことうじ(そでがらみ)つくぼう、さすまた、やり、木刀、鉄砲などが置かれ、これらの道具を使用して違反者をとりおさえたのである。
天和元年(1681)の幡多郡中工事訴諸品目録によると、この1か年で宿毛市内関係の番所で捕まった者は18名に達している。一番多いのは松尾坂番所で伊予の者6名、阿波の者2名、土佐の者3名計11名である。小川番所では阿波の者5名、浜筋番所では土佐の者1名、小深浦山中にひそんでいた阿波の者1人となっている。これらの人々は、殆んどが流浪者で、通行手形を持っていなかった者であり、捕った後は生国へ追放されている。