宿毛市史【近世編‐教育‐藩政時代の教育】

私塾と寺子屋

領主の設立した郷学校は、家士およぴその子弟の教育が目的であったから、一般庶民の入学は許されず、庶民にとっては、寺子屋と私塾が唯一の教育機関であった。
然し、当時の庶民には生活の余裕もなく、また、学問の熱意も少く、領主も領民の教育までは保護育成しなかったので、私塾や寺子屋に通うものは、事務を取扱う、庄屋、老、または、記帳を必要とする商人の子弟に限られ、その他大多数の者は無学文盲の状態におかれていたと想像される。
宿毛では、私塾で、家士の子弟が一定の年令まで学ぴ以後郷学校に入学する習であった。但し、郷学校入学後も私塾に通い、更に深く学問を究めようとする真剣な者もいた。
塾では、郷学校に入学するまでの幼童に、学問の基礎を教え、その後、塾の学派専門の講義をしていたものと思われる。
現在塾として記録の残っているものは、天保の頃三宅大蔵の開いた公堂と、慶応の頃の酒井南嶺の望美楼だけである。その他、元禄の頃谷秦山の南学を伝えた安東郷東、寛政の頃谷北渓の神道本論を説いた加藤度川、また幕末の岩村礫水、中山菊之丞、立田桃源(小野義真の祖父)、上村修蔵などの人々は塾または私宅で子弟の教育をしていたと考えられるが、その記録のないのは残念である。

三宅大蔵妻の墓
三宅大蔵妻の墓

私塾、公堂(弘堂としたものもあるが、三宅大蔵過去帳によって公堂とした。)
公堂は、天保5年に三宅大蔵が開いたところの漢学塾である。三宅大蔵は「文政の頃九州に赴き、広瀬淡窓の門に入って研鑚すること数年、帰郷して天保5年私塾公堂を開き郷土の子弟を教養せり、邑主伊賀氏固に講授館の創設を建議して容れられ抜擢されて講授役となり、士格に列せらる。子弟のため毎朝句読輪講習字の諸課程を授けて全力を竭し寧日なし」(三宅大蔵過去帳)とある。三宅大蔵は宿毛の豪商菱屋(和田氏)の分家であった。「松田川の真砂子はつきるとも菱屋の金のつきることはあるまい」との俗言が語られているが、菱屋は新町と真丁にまたがるあたりにあった。一平民の出で九州まで修業に行ったことはよほどの篤学者であったと思われる。
公堂の教育は、昼幼少の子弟に句読、習字、算盤を教え、夜は上級の子弟に経書、歴史、詩文、兵法などを講義したようである。大蔵は温厚で、懇切に指導したので、宿毛の子弟はみな公堂に集まり、隆盛をきわめ、宿毛文教の開祖とまでいわれている。嘉永2年病歿(高知藩学制沿革取調要項)とされているが、清宝寺過去帳によると嘉永4年2月13日死去和田大蔵とあるのでこれを信じたい。嘉永2年には病気で、講授役を退いたのではあるまいか。墓の所在は不明であるが、妻は天保7丙申年7月23日に死去、墓は西山墓地にある。大蔵の後は和田姓を称しており、三宅姓は大蔵1代限りのようである。

酒井三治(明治9年)(弘中敦子氏蔵)
酒井三治(明治9年)
(弘中敦子氏蔵)

私塾、望美楼  望美楼は、慶応元年(1865)酒井南嶺が宿毛字水道町に開いた漢学塾で、明治2年素堂と改め、同4年に廃止した。南嶺は文政11年(1828)3月14日、宿毛の士、酒井栄(永)三郎の2男として生れ、通称三治、名は祐親、南嶺は号である。幼少の頃から学を好み、書をよくし、天才といわれた。少壮のころ、江戸の佐藤一斎、大阪の後藤松陰、京都の岩垣月州などに師事して帰り、文久3年(1863)宿毛文館の助教役となり、ついで日新館の教授役に進み、明治3年高知藩の準大得業生に挙げられた。
南嶺は生れつき怜悧で気骨があり、常に天下の大勢を説き、子弟の意気を高めた。自らもその揮毫に「日本人酒井三治」と書いたことは有名である。
このような気骨と大局観をもって学校で教える傍、望美楼で一対一の魂のふれあう教育をしたのである。明治の新政に活躍した宿毛出身者は、みな南嶺の薫陶によるところが多かったといわれている。南嶺の望美楼とその塾生について大江卓の書翰に
「緩吾殿大谷氏のため殺害せられ酒井家は断絶となり候、其頃望美楼を建設して子弟を教育せられたり。其時の塾生は
  酒井半助          同巳千
   共に酒井友兄(慶)の弟、今の名を忘れたり
  立田弁二郎(京馬)     同晃三郎
  小野義節           斎原治一郎(今の大江卓)
  小野梓            広瀬為興
  酒井明爾           近藤半(範)斎

大江卓の手紙の一部
大江卓の手紙の一部

等にこれあり候。(中略)岩村通俊、竹内綱なども引立られ候には相違なきも門弟と云うにはあらざるべし。門弟中にては小生并に小野梓は最も信任を受けたり」と云い、「京都より帰郷されてからの門弟であるからそれ以前のことは少年であったから知らないが、岩村通俊の手紙で思い出したこともある」と酒井三治の娘金子智恵子に書き送っている。酒井三治に最も信任されたという小野梓と大江卓の生涯をみるに、日本人酒井三治の精神を端的に表現しているのではないか。幕末に日本人と名乗って事にあたった酒井三治がそのことについて書き残したものはないが、その気魄が大江と小野の行動に感じられるようである。
さきに述べた三宅大蔵によってまかれた宿毛文教の種は、酒井三治によって、花が咲き、明治維新以後明治時代を指導する大人物の輩出となって実を結んだのである。
この偉大な教育家酒井南嶺も、晩年は不遇な生活を送り、明治14年7月11日54才の生涯をさぴしく高知で終えたのである。

酒井三治書
酒井三治書

日新館のその後  日新館という名称は宿毛小学校となってからもなお私塾として残り、青少年錬成の場となっていた。日新館について岩村通世は、「日新館は明治7年小学校となりましたが、その後も私塾として残されました。私は明治26年には10歳に達したので、日新館へ入塾することを許されました。私は毎日朝と夜2回日新館に通って勉強しました。朝、冬は5時、夏は4時に通ったので随分つらい思いをしました。塾生は24、5人くらい年令は10才よリ15才くらいまでの少年ぱかりでした。日新館では毎週土曜日の夜演舌会があり、塾生は必らず順番で演舌をさせられました。また毎月試文雑集という雑誌をコンニヤク版で印刷して発行し、塾生は必らず順番で文章を書かされました。」(岩村通世伝)という。その『試文雑集』の岩村通世の文章は次の如くである。「一宮の山麓、松田ノ川畔に一小屋あり。我々の日夜刻苦勉強する所にして是を日新館と云う。風雨の夜、霜雪の朝をも厭はず、朝は5時夜は6時、晝は2時より出館し2時間の勉強をなし殊に午后3時半より、角力、フートボールの活はつなる運動をなし、以て精神を活はつにし、身体を健康ならしむ」(明治26年12月号、第22号)とあって当時の空気を感ずることができる。日新館の場所は一宮山の上り口のあたりにあった(山県省三談)という。のち水道町に移ってやがて廃止(年月不詳)されたが、明治24年8月8日「今日は宿毛旧学校日新館の再興開業式ありて余も招待を受けたり」(『幡多郡紀行』)といって上村昌訓は、寺石正路が貝塚の発掘のための同行を断っている。塾生は士族の子弟が主であったようである。