宿毛市史【近世編‐教育‐藩政時代の教育】

宿毛の教師

天保年間に三宅大蔵が抜擢されて講授役となったことは前述のとおりである。大蔵が退き、上村修蔵が嘉永2年に後任となったとすると文政10年8月19日生れであるから、修蔵21才であった。ついで「安政元年(1854)広島の坂井虎山に学ぴ、備後の江木鰐水を訪い、伊勢の斎藤拙堂を師として万延元年(1860)帰国して教授役となる」(鷺洲先生小伝)とあるが、文久3年(1863)春正月講授館を文館と改め講授役を上村修蔵、助教授を酒井三治に命ず(高知藩学制沿革取調)とあって三宅大蔵が嘉永2年に退いてから11年ほどの空白があることになるが、その間の身分は不明である。上村修蔵は三宅大蔵の門に入り後塾長となるとあるので大蔵の死後その私塾を受けついだものと思われる。明治3年には文館一等助教、明治4年正月には大得業生となったが、12月に学校廃止につき免職となり12月25日病歿した。明治5年2月に上村昌訓が家督を相続し、昌訓は中学教師となり美術を教えた。
助教授酒井三治については前述のとおりであるが、大江卓の手紙にある通り兄緩吾が大谷道遠に斬られ道遠は自殺した。酒井、大谷とも断絶となったが、まもなく両家とも取立てられた。そのために酒井三治は特に修業したわけでもあるまいが居合の達人であった。岩村通俊は三治について、「自分の手習師匠で専ら居合の修業をなせり、或時三治先生大豆を持ち来り自分をして二指にてこれを持たしめ居合の術を示されたることあり」「同郷人にして書を能くするものは君の右に出づるものなし」と書き送っている。緩吾を斬った大谷氏の後は気象台長大谷東平理学博士(1977年5月没)である。
句読役立田春江は機勢隊では立田強一郎と名乗っている。立田安衛義信の子でのち浪人して小野生駒、小野義真と改名した。中村進一郎は重遠といい明治になって軍人となった。倉田五十馬も文久3年(1863)句読役になっている。倉田は慶応2年6月に伊賀陽太郎の近習となり、明治元年の北越出兵には機勢隊に参加し12月に宿毛に帰った。明治5年4月日新館得業生となりついで宿毛小学校授業生となった。明治17年文部省より表彰され明治30年に至って職を辞し38年正月11日72才で没した。『凸斎遺稿』がある。また慶応元年には岩村通俊が文部頭取に任ぜられている。
慶応3年には文館を改めて日新館とした。新たに算術指導役宗武延年を任命し、宗武は明治3年12月、日新館文学1等助教となり、同4年正月には学校大得業生、9月には学校准大得業生となったが、明治5年高知県権大属となった。また山本元治は機勢隊に加わり北越に従軍明治3年3月宿毛教学所文学3等助教となった。同年11月日新館文学3等助教を命ぜられ、明治4年正月学校中得業生となり、同年10月学校准中得業生、明治5年3月学校中得業生、同年10月中得業生を免ぜらるとある。小得業生近藤範斎は代々医を業とした。明治3年正月当村学校教師を申しつけられ、明治5年2月学校勤務を免ぜられている。小野潜蔵については一切不明である。この時代には姓名ともに自由に変更したので、誰の変名であるのかも不明である。

倉田五十馬書小野家系譜
倉田五十馬書小野家系譜